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4.君という永遠
国語が全然できなかったせいで俺には理系の道しか残っていなかった。逆にいえば理系に特化していたお陰で医学の道が開けて数十年。
人工細胞の研究が進み、かねてから難しいと言われていた「視力の回復」の手術ができるようになった。そして今日、俺のもとにも手術を希望する患者が来た。
「アバクモワ・・・さん。両目の移植手術ということで?」
「はい。」
ロシア人の夫に手を引かれてやってきた彼女は学生の時に事故で両目を傷つけてしまい、そのまま視力を失ったという。それから日本の高校を中退し、親の転勤にあわせてロシアへ行った。そこで新しい高校に入り、視力を失ってもめげずに勉強した。そして親が日本に帰っても彼女はロシアに残り大学へ入学することもできた。仕事を選び将来をどう生きていくかについてはやはり、悩んだらしい。だが、学生時代にやっていた「テルミン」という楽器がきっかけで現在の夫と出会い、結婚し、彼に支えてもらいながら健常者と変わらぬ生活を送っているのだそう。
彼女は手術の直前、
「目が見えるようになったら真っ先に何を見ようか迷ってるんです。」
と、楽しそうにほほ笑んだ。
「なにか思い出に残ってるものはないんですか?」
「思い出に残ってるもの?そうねえ」
丸い桃のような頬に手を添え、考えを巡らせる。目は見えていないが、遠くを、古い記憶を見ているようだった。
「あ」
彼女はなにか思いついたらしく眉をひそめ、くしゃっと笑った。困っているみたいな、でも嬉しそうな、鹹映ゆい感情を漂わせる。
「実際に見たわけじゃないんだけど、」
蓮っ葉な口調で、
「目が見えなくなったあと、高校生のときに、友達がきれいな景色を教えてくれたの。今度はそれを自分の目で見てみたいの」
「へえ、それはどこなんです?」
「病院から見た景色よ。海が広がってるの、夕暮れ時でね、星と月があったんですって。疎らに民家や商店街があって、とってもきれいだって、その人は言ってた」
瞬間胸が熱くなる。眼球の奥でぐるぐると塵芥の如し細かい記憶が渦巻いて、吐き出したい、もどかしさに襲われる。
どうしてか、行ったことなどないはずなのに、彼女の言う景色のある場所が鮮やかな色彩を持って思い浮かんだ。まるで俺もそこにいるみたいだった。
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