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手術は無事に終わった。
彼女は「その場所」に行くまで目を開けないと言っていたから、手術の成功を確かめるために俺も同行することになった。
俺と彼女と彼女の夫で、ある場所へ向かう。
時刻は丁度夕暮れ時だった。地平線に沿って果てしなく広がる空に燃える鳥が羽を広げるが如く、橙色に染まった雲は広がり、焼ける瞳の様な太陽が沈もうとしている。彼女の夫の運転する車の窓から香ってくる潮の匂いは何故だか酷く心を揺さぶった。
そして彼女が嘗て入院していたという病院に辿り着くと、その佇まい、入った先にある待合室の薬っぽい匂いに懐かしさを覚えた。
やはり俺はここへ一度来たことがある。
「変わってないみたいね。」
塗装のはげた壁を撫でて彼女が呟く。
夫が手を引いて、彼女を二階の奥の病室へ連れて行った。それを後ろから眺めると、いまだに独り身であることの虚しさを痛感させられた。
運よくそこは空き部屋で、開きっぱなしの窓から入ってきた風が薄いカーテンを揺らしている。彼女は夫の手を放して、よろよろと窓辺に歩いて行った。暫くそこで棒立ちになる。長い黒髪がたなびく様にどことない既視感を覚えた。
「ねえ、」
先程から感じる違和感みたいな、胸の蟠りに気を取られてぼうっとしていると、彼女が振り向いて、夫の方ではなく俺に向かって声をかけた。
「包帯取ってくれない?」
『ねえ、全然わかんない。これ教えてくれない?』
記憶の彼方にある誰かの声と重なった。
俺は背中を強く押されたみたいに足を踏み出して、つまずきながらも彼女のすぐ後ろに歩み寄り、包帯の結び目を手に取った。
「いい、解くよ」
彼女は体を強張らせて、じっと窓の外を見ようとしていた。
「うん」
力強く、意を決して頷いた。
そして包帯を取ったとき、彼女の視界に黄金色の、眩い光が飛び込んできた。
あのとき見れなかったその光景が、世界いっぱいに広がった。
揺蕩う海と宝石のような輝きを持つ太陽、海に沈む手前それは一層強く灼熱の炎の様に燃え広がって彼女の瞳を照らしてくれた。
ああ、彼女の世界は輝きだした。
もう一度この世の全てを見渡せるのだ。それが見たくないものであっても今は美しい色と躍動を持って彼女の帰還を喜んでいる。
そう、彼女は帰ってきたのだ。
もう一度、ここへ。
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