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青い魚
止んでいた雨がまた降りだした。
私はいったん足を止めて閉じていた紺色の傘を差し、また歩き出す。
雨の匂いがする。濡れたアスファルトの匂い、地面の匂い、草木の匂い、その重たく湿った匂いの中を、私は歩いていく。
空の灰色を映すように、町は淡くくすんでいた。そんな景色も嫌いではない。
差した傘の中にはパラパラと雨音が響き、雨が落ちる音はサラサラと微かに空気を震わせる。
静かなようで、静かでない。けれども、この空間を歩いていると、私の心はいつも穏やかだ。
もう少しで家に辿り着く、という時、私は前方に水たまりを見付けた。
少し地面が窪んでいて、雨の日には必ず水たまりになる場所だ。
私は少し俯いて、その水たまりに向かってまっすぐ歩いていく。
下を見て歩いていたから、水たまりには気付かなかった。辺りには誰も居やしないのに、そんなフリをして水たまりに向かっていく。
浅い水たまりに足を踏み入れた、パシャ、という軽い音が雨の中に響いた。
水たまりの中に波紋が大きく広がっていく。それは元の水たまりの大きさを越えて、やがて遠くで消えてなくなった。
世界が変わっていた。
足元一面、全てが水に覆われていた。少し動けば、自分を中心に水が揺らいで波紋が広がる。
空には雲一つなく、それが足元の水に反射して映り、辺りは一面の空色だった。
世界に終わりは見えず、遮るもののない空間は何処までも見渡せる。立ち込めるのは雨の匂いだ。
先ほどまでいたところとは明らかに様子が違うこの場所で私が慌てないのは、前にもここに来たことがあるからだ。
「あら、また来たの?」
後ろから声をかけられて振り返ると、そこに居たのは大きな魚だった。
青く光る美しい鱗を持ち、私の目の高さを優雅に泳いでいる。
「ここにはあまり来ない方が良いって、何度も言っているのに。お前はこちらに呼ばれやすいのかしら」
美しい女の声で、魚は喋る。
初めて私がここに来た時、助けてくれたのが彼女だった。
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