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「旅館みうら」は古い木造の旅館だった。だが、中はこざっぱりとして上品で、意外にも清潔感に溢れている。旅館の女将は六十代ぐらいのおばさんだったけれど、タクシーのおじさんに負けないくらい気さくな人で、夕暮れ過ぎに辿りついた急な泊り客にも快く応じてくれた。
「ごめんなさいな。今日は他にお客さんもおらんで、晩御飯の支度、しとらんとですよ。今から作ったら遅くなるばってん……」
八畳の「すみれの間」へ通された後、女将さんが申し訳なさそうに言う。でもそれは突然訪れたのだから仕方がないことだ。
「おかまいなく。どこか食べに出ますから。近くにお店ありますか?」
「大通りば北に向ったところに繁華街がありますばってん。ちょっと待っとって下さい。地図ばお持ちしますけん」
女将さんが部屋を出て行き、改めて息をついた。二階のこの部屋の窓からは海が一望できた。日が沈んだ後の海は仄暗く、街の灯りを映してユラユラと波打っている。じっと見つめていればそのまま吸い込まれていきそうな気がした。
『――今度、海へ行こうな』
不意に耳の奥に甦ってきたのは陽気なあの人の声。
私は思わずギュッと目を閉じていた。
「……心ない口だけの約束」
自嘲するように呟いて首を振った。
もう忘れよう。忘れるために来たんだから。振り切るために独りになったのだから。
私は固く唇を引き結んで海を眺めた。
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