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『ちょっと、遥乃? あなたどういうつもり? 突然辞めるなんて――』
電話に出るなり飛んできた金切り声に、私は思わず受話器を耳から離した。それでもまだキャンキャンと甲高い声は聞こえる。よく聞き取れないけど、彼女が大層お怒りなのは理解できた。
無理もない。一番親しかった同僚の彼女に一言の相談も無しに、わたしは会社を辞めたのだ。
退職届を出したのは週末。待つこともなくその場でそれは受理された。結局、私などいてもいなくても、会社にとってそんなに重要なことではないらしい。
同僚は週明けの今日、私の退職を知ったことだろう。それを受けてのこの電話だ。家の固定電話にかけて来たのは、私がスマホの電源をずっと切りっぱなしにしているからだ。
『――遥乃、ちょっと聞いてるの?』
「……うん。聞いてる」
苦笑を滲ませ、私は受話器を握りなおした。
「びっくりさせてごめんね、ケイちゃん。いろいろあって辞めることにしたんだ」
『いろいろって何よ?』
少しだけクールダウンしたらしいケイちゃんが冷静に聞いてくる。私は小さく笑いを零した。
「そんなに大したことじゃないよ。極めて個人的な都合」
『個人的なって。そんなに急に辞めなきゃいけないようなことなの?』
「うん、ごめんね」
私はチラリと時計に目を向けた。
「――ホントにごめん、ケイちゃん。私これから出掛けるの。電車の時間あるから、切るね?」
『切るって、ちょっと! 遥乃?』
「ごめん。また今度連絡するから。じゃあね!」
『はる――』
私はケイちゃんの声を断ち切るように、受話器を勢いよく置いた。心配してくれた彼女には本当に申し訳ないが、今は話す気分ではなかった。
しんと静まり返る室内を改めて見渡して、よいしょ、と立ち上がる。
大丈夫、一通りの片付けは済ませた。
傍らに置いてあったボストンバッグを手にとって、私は玄関へと向かった。
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