前兆

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前兆

 咲の走る姿は、いつだってうつくしかった。  わかるひとなら、フォームがきれい、とか言うのかもしれないけれど、残念ながら運動はからきしなわたしにはよくわからないことだった。運動における理論というものは、運動の出来るひとの為のもので、出来ないひとの為のものではないのだ。……単にわたしがそっぽを向いている、というだけかもしれないけれど。  そんな運動ぎらいのわたしでも、咲が走るのを見ているのは気持ちが良かった。均整のとれた身体にうすく乗った筋肉が、咲の思うままに操られ、一体としてひとつの運動を進めていく。陸上なら、咲の決めたリズムで同じ動きを一定に繰り返す。ほんの僅かなブレを残して繰り返される動きに、わたしは精密機械の動くような気持ち良さを感じた。  そして、彼女の愛してやまないバスケでは、その筋肉はまるで別々の動きをしながら、だけど彼女という個体の下でひとつの総体として振る舞い、あの褐色のボールを自在に操るのだ。それは、ピアノの内側に並ぶハンマーに似ていると、かねてからわたしは思っていた。ひとつの音楽を奏でるために、まるで勝手に動いていたかと思ったら、一糸乱れぬ様で順に波が滑るように動いていく。思えば、あれを眺めるのも昔から好きだった。  彼女は、わたしの憧憬のひとつの形だった。  運動ができて、勉強はちょっと苦手だけど、その人柄や明るさに惹かれた友達がたくさんいて、後輩にも慕われている。それをバスケ部の顧問の先生やチームメイトたちも認めていて、だからこそ彼女をリーダー、つまり部長として頼りにしているのだ。それが、これまでの中学生活で彼女が築いてきたもの。  無個性な「真面目」だけが頼りのわたしとは大違いだった。
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