染谷大空 海棠の雨に濡れたる風情

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染谷大空 海棠の雨に濡れたる風情

 俺は雨が嫌いだ  貴女と出会ったこと、あなたと過ごした日々を思い出してしまうから    あれはもう初恋と言っていいだろう。貴女はほっそりとした身体を雨露で湿らせながら、空に向かって懸命に叫んでいた。  何を言っているのか全く分からない。だが、確かに感じた。したたり落ちてくる雨を味方につけ、貴女の小さな身体から湧き出てくる生命の息吹を。  俺は生まれて初めて自分の中に芽吹いた感情を、貴女と共にぎゅうと抱きしめた。  貴女の胸に包まれていた古びた野球ボールが地面に落ち、ぴちゃっと音を立てる。そのボールを拾うと、平仮名で大きく「けんじ」と書かれてあった。  胸が一瞬騒めいたが、貴女の皮膚から伝わってくる温もりですべてがかき消された。  それから程なく貴女との共同生活が始まった。貴女は根っからの気分屋で、まるで時雨のように降ったりやんだりを繰り返す。  ある時、貴女はテレビの前で立ち止まり画面をじっと見つめていた。マウンドに向かって声援を送る生徒たち、空を突き破るような吹奏楽部の演奏、力強く素振りをするバッター、ミットを構え「さあ来い」と岩のようにどっしりと座っているキャッチャー。  少しの間を置き、ピッチャーの腕が大きく振り下ろされた。バシンと力強い音が響き、観客が一斉に湧き上がる。  そう、それは甲子園の舞台だった。  男子高校生たちの熱い戦いに心を奪われているのだろうか。貴女の薄緑色の瞳はテレビに映った青々とした空に向けられていた。  俺は貴女と出会ったときに拾い上げた野球ボールを思い出した。「けんじ」という名前が脳を掠めたが左手で頬を叩き、貴女をそっと抱き上げた。  俺の目線と貴女の目線が交差する。 「俺が貴女を甲子園に連れて行ってあげるよ」  あまりにも言い慣れていないセリフに体温がみるみる上昇してきた。だが、貴女は「あっそ」と言わんばかりにフンと鼻を鳴らし、ソファにごろんと寝そべった。  相変わらずだった。
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