オルター・洋子「龍平洋漂流記」より 第3章 妙味な男たち

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 モヒカン故郷に帰る(2016公開)…割れた鐘のような男 私の敬愛する仏教僧侶アルボムッレ・スマナサーラ先生は、HNKの「心の時代」という宗教番組で「感情はゴミである」と言い切ったのにはびっくりした。私の持っている著書でも「割れた鐘」のような人間になることを教えている。 ここでその意味を説明するのは、私には到底無理だが、単純に解せば「打てば響く」の正反対になれということである。感情が豊かであることが良いとされている現代常識を真っ向から否定する言葉である。 現代の教育では、いかに自分の感情を表現するかをコミュニケーション力として子供に教える。喜怒哀楽を豊かに表現することはいいことで、それを表現できない人はダメ人間のように言われる場合もある。私も、そういう価値観で育てられた。しかし、これはいかにもローコンテクストな文化基準ではあるまいか。 私は元来、どちらかというと「感情はあまり表に出ない方がいい」と考えている。「打てば響く」人が、コミュニケーションに長けているとは到底思えない。  だって、何かあるとすぐに喜怒哀楽の反応が返ってくる人は、その感情がすぐ翻る。さっき泣いたのにもうケロリとしていたり、あんなに怒ってきたのに勝手に謝ってきたり、まったく信用できないじゃない? そういう人は、黙って見てると、自分が自分の感情に翻弄されている。 一度沈黙して、感情の波が去ってから答えを出すということをしないから、感情の赴くままにメクラメッポウ人生を過ごしているように見えてしまう。そういう人は周りを振り回すから大迷惑である。 その点モヒカンは何か起こっても、大抵ヌボーっとしている。 大切なことに対して意見を求められると、キョトンとした顔で「…」となった後、「俺も色々と考えてみたが…まあ…君の言うとおりだ」となる。 「…」がやたら多い。本当に色々考えているかいないかは、その表情からは読み取れない。つまりモヒカンは、スマナサーラ先生のおっしゃるところの「(打っても響かない)割れた鐘」のような男だ。
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