白石健太の場合

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白石健太 35歳 結婚して、今年で10年目を迎えるはずだったが、昨年、妻の琴子を亡くした。 結婚して2年目に購入した二人で生活するための一軒家は、たった八年で大切な主を一人失った。 そして、僕一人だけが取り残されてしまった。 家からすべての音が消えた。楽しい音も、嬉しい音も、ムカツク音も、僕の日常から突然、姿を消した。 仕事に行く気になれなかった。 何もする気が起きなかった。 気が付くと、琴子がお気に入りだと言っていたリビングに置いてあるソファーに座り、息をするだけの廃人になっていた。 琴子の匂いが消えていくこの部屋で、抵抗するように琴子の思い出に閉じこもった。 窓もカーテンも開ける人がいなくなったこの部屋は、いつでも薄暗いが、僕が起きている間だけスイッチが自動で入るテレビだけが、この薄暗い部屋にわずかな光を届けた。 テレビに内蔵されたAIがスイッチの入り切りをしている。と言うことは、僕という存在をいつも気にしてくれているのは、テレビに内蔵されたAIだけだ。 心配してくれる人もいない。 だらしないと注意をしてくれる人もいない。 僕は欲求に従って、誰もいない部屋で酒を飲み、クダをまき、眠ったり起きたりを繰り返した。 次第に時間の感覚がなくなっていき、そのうちに、朝も昼も夜も分からなくなった。 気が付いたら眠っている生活は、眠っているのか起きているのかさえ、あやふやにさせた。 僕にしてみれば、起きて居ようが、寝ていようが、どうだっていい。 僕がやる事といえば、自分の心臓がなぜ動いているのか、なぜ呼吸をしているのかと、考えるくらいだ。 哲学者でもあるまいし、どんなに考えても意味などみいだせる訳はないと知っているのに、そんな日々から抜け出せなくなっていた。 部屋の隅で枯れたままになっている観葉植物にでもなった気分で、このまま自分の息の根が止まるのを待つ。 誰にも知られず、深海の底で暮らす魚そのものだった。
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