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母のベッドの横に置かれた簡素なパイプ椅子に腰を下ろすと、病人の母は体を起こして必ずこう言う。
「今日は体調がいいのよ。そうだ、冷蔵庫にぶどうがあるの。どうせ食べきれないから、食べて行きなさいよ。」
そう言って母は、消え入りそうな顔でそっと笑う。
分かっているよ、僕が来るのを知って、わざわざ買って置いてくれたんだろう。
僕は、好物のぶどうをほおばりながら、母の口から語られる病状を聞き、頷いて見せる。
母の話は大抵、良くなっているという口ぶりだ。
この調子だと、孫が見られるくらい生きられるわと母は必ず言う。
病状が良くなるはずはない。検査結果だって、いつも良くないと父から聞いて知っている。
僕に変な心配を掛けたくないと、病の淵で強がる母をみる度に、胸が締め付けられる思いがこみ上げた。
その後、母は穏やかな顔で、決まって昔話を始める。
あの時はどうだったとか、この時はこう思ったとか、取り留めもない話だ。
それでも、僕には初めて聞かされる話ばかりで、母の想いを少しだけ理解出来たような気がした。
母と向き合って、抵抗もなく話をしたのはいつ以来だろう。
何度か通ううちに、わだかまりも溶けていった。
「僕さ、本当は音楽で食べていける人になりたいんだよね。」
この日のお見舞いで、僕は母にこんな話をした。
素直に自分の気持ちを打ち明けたのは、この日が初めてだったかもしれない。
「知ってた。頑張って、って言ってあげたいけど、それだけじゃ、やっていけない世界だものね。分かっているけどね、本当は応援してあげたい。」
母はそう言って、小さく笑った。
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