高木宗太の場合

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次のお見舞いに行ったときだった。 お決まりの会話の後、母は真っすぐに僕を見ながら白い封筒を差し出した。 封筒の中身を確認して、驚いて母の顔を見た。 「母さんは、音楽の才能は全くだし、だからお前にも授ける事が出来なくて、ごめんね。せめて、一流の人の目で世間を見渡したら、何か新しい発見があるかも知れないから。」 封筒の中身は、“色眼鏡屋ギフトカード 30”と書かれた商品券だった。 色眼鏡屋は、特殊な眼鏡を掛ける事で違う人の目になれる不思議な眼鏡を売っていると話題の店だ。 個人的にオーダーメイドも出来るそうだが、故人になってしまった超一流の著名人や有名人の色眼鏡も数多く取り扱っていて、種類も200本を超えているらしい。 去年亡くなったトップアイドルグループ空色ポケッツのリーダーを務めていた沙苗ちゃんの色眼鏡が発売されると話題になり、僕はこの店の存在を知っていた。 ちょっとだけ試してみたい気持ちはあるけど、高いお金を払ってまで欲しくはない。僕が持つ、色眼鏡の興味はこれくらいだ。 他人の目になって、自分が普段見ている景色と違うものが見えたからって、何が変わるんだろうか? 何か変わるものがあるとすれば、恐らく気分くらいだろう。 そもそも、一流の人の目になれたからと言って、一体どれほどの価値が生み出せる? どうせ、一流の人の目で世間を見渡したって、僕は僕で、何も変わらない。 母も当然、一流の人の目を手に入れたからといって、本当に何か変わるとは思っていないはずだ。 この方法で、僕の音楽家への道に影響があるとかないとか、有意義だとか無駄だとか、近道だとか遠回りだとか、そう言った事はどうでもよくて、死にゆく母のせめてもの気持ちだと思う。 応援しているよっていう気持ちを形として、僕に示してくれた。 このギフトカード30万円分は、そんな母の愛だ。 母親とは、こんなにも有難い存在だったのかと、改めて思った。 「ありがとう。」 僕は素直に受け取った。 満足そうに微笑む母の顔が、生前最後の記憶になった。
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