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『もしもし、お隣さん。壁の向こうの方。聞こえるだろうか』
唐突に、壁の向こうから日本語が聞こえてきた。あきらかな呼びかけだ。
ちょうど帰宅して、冷蔵庫から缶チューハイを取り出したときだったから、その声を聞いて驚いて缶を取り落としてしまった。
風花は焦った。
やはり、自分の日々の愚痴がうるさくて、その苦情だったのだろうかと。その上、お隣さんは風花に文句を言うために、日本語を習得したのだろうかと。
そんなことを考えると返事をすべきなのか、するにしても何と返事をすべきか迷ってしまった。
迷っているうちに、今度は壁を叩かれた。
『聞こえるだろうか。調整は完了したはずなんだが。聞こえているなら、壁を叩き返してほしい』
生真面目な、ちょっぴり硬い声が呼びかけてきた。そして、きっちり同じ叩き方で三回、トントントンと壁をノックされた。
「……えっと、私、ですか? 聞こえます。聞こえてます」
壁の向こうの人間が何かを確かめようとする様子が気になって、風花はつい、壁を叩き返していた。そのときには、相手の目的が苦情を言うことではないと、ほとんど確信していたのだ。
『よかった。……本当によかった! やはり、成功していたのだな! 長らく呼びかけていても反応がなかったのは、言語の調整が必要だったというわけか』
壁の向こうの人は、何かを喜んでいた。静かで、知的な喜び方だ。でも、風花には彼が何に喜んでいるのかさっぱりわからない。わかるのは、どうやら本当に苦情ではなさそうだということのみ。
「あの、もしかして私、うるさかったですか?」
念のために、風花は尋ねていた。大丈夫そうとはわかっても、やはり心配だったのだ。
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