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だが、絹は口ずさみ続けた。子守唄を唄っていれば、いつの日にか、同じ子守唄を唄う人に出会うことができるかもしれない。そう密かに信じていたのだ。
年が十一ぐらいまでの幼かった頃のお絹は、ある秘めた想いを抱いていた。
『自分は実は菊池屋の娘ではないのだ』と。
おそらくは江戸のとある旗本家の娘。ただ訳あって山深き鹿宮の仲買商家に預けられている。婚姻するに相応しい年頃になれば、江戸からはるばる旗本家一行が迎えに来るのだ、と。
そう信じて疑わない時期もあった。
今、十七になった絹はそんな妄想を真剣に抱くことは無くなった。どれでも、幼い娘が歪な幻想を抱いてしまう事情が菊池屋にはあったのだ。
絹の両親、菊池屋多左衛門とお清。
絹仲買商の主人、多左衛門は小太りの狸を思わせる風貌で、偉い者に対しては憎めない笑顔を振りまく一方、農民などの弱い立場の者や、家人に対してめっぽう厳しい。情の欠片も見せない。表裏の烈しい男だった。だが、多左衛門は商売の才覚を持ち合わせ、店を繁盛させている。ゆえに周りの者は何も意見できなかった。
一方の母、お清は温厚な性格だった。
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