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そこで、鹿宮郷の者たちは昔から桑の木を栽培して、桑の葉を集める。それを蚕に喰わせ成長させて、蚕の繭から絹の糸をひき、絹布を織るのだ。しっかりと丈夫に織り込まれた絹布は、江戸の人々に大変好まれて、白地のまま江戸へ運ばれた。そうして現金を手に入れた鹿宮郷の者たちは必要な食料を買え、生計を賄うことができた。
『お蚕様』
絹の糸をもたらしてくれる蚕を、村人たちはそう呼んでいた。
今朝になって急遽、絹市に届け物をする様に、絹は頼まれていた。着物の中には、届け物の絹札が大事に仕舞われている。土着の絹仲買商が絹を持ち込んだ農民へ発する、約束手形のようなものだった。
絹の父であり、菊池屋の主人の多左衛門は今朝の絹市には顔を出さずに、絹布の買い付けも番頭に任せたままだ。当人はといえば、馴染みの呉服商が上野から江戸へ上京する途中で立ち寄るとの連絡を受けて、接待の準備に追われていた。
「絹市と馴染の相手、どっちが大切なのけえ?」
と、絹は不満そうに口にする。
「ね、ギン。どっちだと思う?」
脚を止めないまま、自分の腕の中を覗き込んだ。
両腕を組んだその中には、年老いた中ぐらいの猫がうずくまるように納まっていた。家で飼っている三毛猫を、湯たんぽ代わりに抱いてきていたのだ。ギンは眠いらしい。にゃあにゃ、と短く啼くや、すぐに細い目を閉じてしまった。
それを見た絹は、眉を細めた。
「おめえは呑気でいいわ」
ふう、と溜め息をつく。白い息が出た。今朝はとくに冷えこんでいた。
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