前日譚/青嵐の階(きざはし)

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 ──千景の授業中における居眠りが問題視されたのは、何も今回の八神に限った話ではない。  所属する弓道部の部長としての責務に加え、病気がちな母親を経済的に支えるため、部活が終わったあとはバイトに明け暮れる日々を送る彼にとって、おそらくは授業中こそが唯一、心身ともに休息を許される貴重な時間であるはずだった。  本来ならばあってはならないその問題行動に、ほかの教師たちに促されるまま指導を重ねながらも、貫井は、母子家庭である彼の生活環境や、それでも変わらず優秀な成績をキープしていることを免罪符にして、それとなく話がこれ以上大事にならないように誘導し、一方で、当の本人である千景には反省文の提出などの形式的罰則を与え続けてきた。  けれど、本音を言えば、萱島千景というくだんの生徒がその程度でおのれの意思を変えるとはとうてい思えなかったし、それを指導する貫井の側にもまた、彼を翻意させる気などは端からなかった。  ……そう、そして貫井が今、何よりもいちばん解せないのが、仮にも教師の立場にある自分が、そもそも彼を翻意させる気がないというその信じがたい事実だった。  ──都内にある国立大学を卒業し、教職に就いて約七年、これまで赴任先の高校で出会った千景のような生徒たちに対して、貫井は程度の差こそあれ、教育者としての使命をまっとうすべく彼らに真摯に向き合ってきた自負がある。  感情の起伏に乏しいというおのれの人間的欠陥も、焦らずじっくりと時間を掛けてひとつの物事に取り組む場面ではその性格がはからずもプラスの方向へ転化され、結果、今では貫井を恩師と敬い慕ってくれる生徒も少なからず存在する。  それなのに、彼に──千景に対してだけは、何故か今までのように冷静に振る舞えない自分がいることに、誰あろう貫井自身がひどくとまどっていた。
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