前日譚/青嵐の階(きざはし)

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「さっき、雨が降る直前につぶやいただろう。『来る』って」  我ながら何をそんなにむきになっているのかも分からず、ともすれば上ずりそうな声を懸命に抑えて、貫井はその他愛ない質問を目の前の生徒相手に繰り返す。  ……分からない。分からないけれど、ただ自分は──。 「……ああ、」  そうして、それまで茫洋としていた千景の瞳にしだいに強いひかりが灯っていくのを、まるでその瞬間を待ち焦がれていた子どもみたいな気持ちで受けとめる。  ──そう、ほかの教師がどんなに彼の不誠実さを嘆いても、自分にだけは──少なくとも、自分が受け持つ化学の授業中には彼が居眠りなどしないことに、貫井はもうずいぶん早くから気付いていた。  さらには、これこそが先程、八神の話を聞いたときから胸を支配し続けていた奇妙な感情の正体であったことを、わずかな慄きとともに唐突に思い知る。 「別に大したことじゃありません。……ただ、雨の匂いがしたような気がして」  ふ、とひかりがにじむ澄んだ瞳が、貫井を見上げたままやわらかく細められる。そこに映る欺瞞も、ゆがんだ優越感や独占欲もすべて見透かすように。  ──あるいは、いつのころからか貫井の心の奥深くにひそんでいた、彼へのもうひとつの特別な感情までをも。 「……先生……?」  窓を打つ雨の音が、ひときわ大きく鼓膜を揺らす。そのとき初めて貫井は、自分がもうもとの場所には戻れないかも知れないことを悟った。
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