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──それくらい、このひとのことが好きだった。
いつもは不愛想な彼が、ほんのときおり、本当につかの間だけれど垣間見せる、不器用なやさしさが大好きだった。
目の前で、貫井の白衣がすっと動く。そのまま、上座に座っていた彼が机の脇を通ってドアの方へ向かうのを、千景は動かせない視界の端で見ていた。さっきからもうずっと自分のなかで軋みをあげていた何かがついに今、確かに壊れゆくのを実感しながら、それでも身動(みじろ)ぎひとつできずに、机の表面でたゆたうひかりの眩い軌跡を睨んでいた。
──そのとき。
ふいに強い力で腕を掴まれ、身体が大きくがくんと傾ぐ。倒れ込むようにその力に引き寄せられ、気が付くと、千景は貫井に抱きすくめられていた。座っていたパイプ椅子が、机の角に当たってがたんと音を立てる。
一瞬、何が起こったのか分からなかった。
ただ、息を殺して自分を包む白い世界に身体を預けていた。
──……何で──?
「……自分のことを嫌いだなんて言うな」
頭のうえから、貫井のくぐもった声が聞こえてくる。顔を上げると、先程までの感情とは違う気配を湛えた瞳が千景を見つめていた。いつも好ましく思っていた長い指が、ゆっくりと千景の頤(おとがい)を捉え、さらに上向かせる。
「──、先せ……っ、……」
呼びかけが、降りてきた貫井の唇に遮られる。その唇がひどく熱くて千景は驚く。──このひとのなかに、こんな熱があったなんて。
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