そこには何もない。ただ、箱だけ。

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 男がいる場所は、部屋ではない。箱と台座と、音の他には何もない場所だ。ただ暗闇が広がっていて、男の所在すらはっきりと分からない程だ。それ故、白い箱はその暗闇の中にあってぼうっと浮かび上がり、際だって悪目立ちをしている。  音はやがて、幾つかの旋律に集約され、まとまりを見せ始める。『音楽』が生まれ始めているのだ。お互いの旋律を邪魔することなく流れていく音の群れ。優しい音、激しい音。冷たい音、温かい音。するすると滞りのない水の流れのように耳に流れ込んで、鼓膜を心地よく刺激する。  旋律の数は最早膨大で、数える事など叶わぬ程であったが、不思議といずれも干渉せず、総じて美しい音楽を形成していた。  荘厳でありながら可憐で、時にコミカルに、時にロマンティックに。走りがちな所もあれば、ゆったりと流れる所もあり、その様子は一様ではなく常に変化し続けている。  男は聞き入っていた。決して洗練されてはいない荒削りな音楽ではあったが、しかし聞く者の気持ちを揺さぶるような、そんな音楽に夢中だった。  それが随分長い事続いた。違和感が出てきたのはいつの頃からだったか。  ぎん、と音が混じる。錆びた金属が弾かれた時のような、耳障りな音。気のせいかとも思ったが、徐々にその数は増えていった。  ぎん。ごん。げん。  はっきり言って耳障りだし、不協和音の元凶と言っても良い。男が気持ちよく音楽に浸っている時にこうした音が入ってくれば、当然気分が害される。自然、男が蹙しかめ面つらになる回数は次第に増えていった。  こうした音というのは、綺麗な音楽よりも異様に頭に残るものだ。美しい音楽に浸ろうとする瞬間に、ぎん。すかさずごん。げん。男のいらいらは募るばかりであった。
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