ばかなのは

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一目惚れだった。 風になびく艶やかな黒髪も、透き通るような白い肌も、その人を形作る全てに心を奪われた。 --おはよう、新入生くん そう言って優しげな垂れ目を細め、桜色の唇を綻ばせたその人が風に揺られる髪を耳にかける。その薬指に光る銀色の指輪すら、彼女の一部だと思うと愛おしかった。 「ばかじゃないの」 放課後の教室。おれの担任への恋心を一蹴したのは幼馴染の沙苗だった。ただでさえ鋭いつり目を更に吊り上げてこちらを見つめ、呆れたようにため息をつく。 「なんで結婚指輪を見て更に好きになるのよ。そこは失恋したって悲しむところでしょ」 「だって、とても似合っていたんだ。あの指輪を贈った先生の旦那さんはセンスがいい」 おれの賛辞の言葉に、沙苗はショートカットの黒髪を緩く振った。脱力した、と全身で表現するように席に座ったままのおれの肩口に額を押し付ける。顔を見せない体制を取るのは、沙苗が相手を傷つけてしまう正論を言うときの癖だった。 一息置いて、低く静かな声が耳に入り込む。 「あんたの恋は叶わない。教師と生徒。相手は既婚者。もしかしたら子供もいるかもしれない。あんたを目に映すことがあったとしても、そこに愛や恋が含まれることはない」 わかってるでしょ、と少し感情的になった呟きが付け足された。 沙苗は優しい。他の誰も気づかないだろうが、十五年間一緒に育ってきたおれにはその優しさが手に取るようにわかる。 厳しい言葉は真実だ。目を逸らしていたら直視したときに心を抉られる事実。最初から気づいていれば、期待して舞い上がることも裏切られたと嘆くこともしないで済む。 だからおれは、その優しい忠告を心に刻む。 それでも。 「それでもおれは、先生が好きだよ」 たとえ叶わなくても、高校三年間のおれの恋心は先生のものだ。 「ばかじゃないの」 沙苗は肩口に額を押し当てながら詰るように呟く。 そしてばかなおれは、震えた声にも熱く濡れていく背中にも、気づかないふりをするのだ。
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