蠢く影

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蠢く影

濡れた空気が肌に纏わりつく。歩いているとじっとりと汗が染み出してくる。視界は全て靄がかったようで自分達が何処に向かっているのかわからない。携帯電話は圏外である。濡れた葉の独特な匂いが辺り一面に立ち込めているばかりで鼻も当てにならない。 紅露學と玄野英慈は霧深い森の中で彷徨っていた。この日は周りが森で囲まれた村で起こった殺人事件の捜査に駆り出されていた。この二人の前ではどんな難事件も難事件たり得ず、今回もあっさりと解決したのだったがそれが仇となった。予想よりも早く解決できたことで帰りの電車までそれなりの時間が余り、紅露が「少し森を散策しよう」と提案したのだった。玄野は断る理由もなかったので首肯して散策を始めたのだったが、すぐに後悔することとなった。辺り一面木しかない森の中では自分達がどこから歩いてきたのか分からなくなる。その上、致命的だったのは散策を主導していた紅露が方向音痴であるということだった。紅露は自信満々に「こっちのはずだ」とどんどん突き進むのだが、一向に森から出られない。更に運悪く曇っていたことで太陽の位置は分からず、霧が発生し、携帯電話は圏外だった。紅露は変わらず「大丈夫、大丈夫」と言いながら歩き続けてはいるが、明らかに語気は弱くなっていてその背中からは不安が読み取れた。 玄野は口出しできないので紅露の後をかれこれ二時間ほど付いて行ったが流石に辛抱たまらず紅露の肩を叩いた。振り返った紅露は「ははっ」と気まずそうに笑った。 そのときどこからか、ちゃぽんっという音が聞こえた。水の音のようである。紅露は目を閉じ耳を澄ました。ちゃぽんっ。また音がすると紅露は「こっちだ」と勢い良く音のした方へ歩き出した。玄野も後に続くが紅露は速く、離されてしまった。 十メートル程先で紅露は立ち止まっている。玄野が追い付くと「ほら、見てみろ」と紅露が呟いた。 目の前には湖が広がっていた。薄く霧がかかっており全体を見渡すことはできないが、それなりの広さがあることはわかる。 「おい、あれ」紅露が湖に向かって十時の方向に指差す。「あそこ、何かあるように見えないか?」と尋ねる。玄野は少し首を傾げながら頷いた。霧の向こうはボンヤリとした木々の影が見えるばかりでありはっきりとは判らないが紅露の指差した方向だけはその影が周りとは違うように見えた。
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