7.星影に結ぶ珠

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 〝歩く〟ってこんなにも難しいことだったかしら。  まるで雲の上をふわふわ飛び跳ねているような、あるいはゆらゆら揺蕩(たゆた)う海の底を歩いているような──そんな浮遊感を覚えながら一心に足を動かしている。  この石畳の小径(こみち)がどこに繋がっているのかアデレードは知らない。けれど「ついておいで」と先導してくれる背中を追っていれば何の心配もいらないことはわかっていた。  視線は前を行く彼の後頭部に縫い止められている。昼下がりの光を弾いて輝く蜂蜜色の髪。離れていた数年の間もずっと思い焦がれていたその色は、目にしているだけで安心感を与えてくれる。  青年の肩越しにレンガ造りのアーチが見えてきた。覗いた先の風景にアデレードは感嘆の声をあげた。楽園だ。大輪を咲かせる花卉(かき)から小花を幾つもつけた低木まで、萌える緑の中で様々な花が咲き乱れていた。甘やかな春の香りが鼻腔をくすぐり、次第に気分が高揚してくる。  目を引いたのは見頃を迎えた薔薇だった。ふんわりしたピンクに優しいオレンジ、気品のある紫。上品な白薔薇は花弁が幾重にも丸く重なり、大事な宝物をそっと包みこんでいるようだ。 「とっても素敵!」  蔓薔薇(つるバラ)の絡みつく東屋(ガゼボ)の中でアデレードはくるりと回転した。目を閉じると花の香りは一層濃くなった。どこかで小鳥が囀っている。 「お気に召してもらえたかな?」  彼はのんびりやってきた。肩口で結った長い髪が、青年の小首を傾げる動きに合わせてさらりと揺れる。昔贈ったリボンをそこに見つけた喜びもあいまって「もちろん!」と破顔すれば、彼も優しく微笑み返してくれた。久しぶりに目にした笑顔はやっぱり素敵だった。 「フォルトレストに来てよかった。ウィルトールのお家にこんなに素敵な庭園があるなんて。いっそここに住みたいくらいだわ」 「きっと気にいると思ってたよ。アディは昔から薔薇が大好きだもんな」 「え?」  覚えたのはほんの僅かな違和感。  ──そんなこと言ったかしら。  好きかといえばもちろん好きだ。けれど特別好きというほどではない。薔薇も菫も水仙も、花なら全て等しく好きだし一種に限らない。  心の壁に開いた穴は始めこそ針でついたような小さなものだったが、 「これが何かわかる?」  長い手指が白い封筒を掲げてみせるとアデレードの胸はさざ波が立つようにざわめき出した。  隅にあしらわれていたのは花の透かし絵。丸い花芯のまわりを何枚もの細長い花弁が縁取る可愛いマーガレットだ。もしショッピングで見つけたならアデレードもきっと惹かれて手に取る気がする。  だが残念なことに見覚えは全くなかった。そして誰が見たって男性より女性好みな品であることも想像がつく。つまりあれはアデレードの知らない女性からウィルトールへの手紙ということ。  一抹の不安を覚えつつ首を横に振った。彼は微笑を湛えながら悲しそうに眉を寄せた。 「思い出して。とても大事なことなんだ」 「そんなこと言われても……」 「ほら、手伝ってあげるよ」  性急に手を引かれてガゼボを後にする。  いつしか辺りは(あか)い光で満ちていた。いつもなら歩調を合わせてくれるウィルトールは、今日は有無を言わせずアデレードを引っ張っていった。速い。何を急いでいるのか、もしくは何も気にしていないのか。  足をもつれさせながら小走りについていくと彼は唐突に足を止めた。その背中に思い切り突っこんだアデレードは(したた)かにぶつけた鼻を押さえた。 「ご、ごめんなさい……!」 「アディは信じてるんだな。朱鳥(あけどり)の丘で愛を誓ったふたりは、末永く結ばれるって」 「えっ、それは」 「根拠のないものは信用に値しない。……さすがに言い飽きた。アディだって聞き飽きてるだろう?」  どこか自嘲めいた声音にアデレードの心臓が跳ねた。  ウィルトールはジンクスのことを知っていたのか。知った上で、聞き分けのないアデレードに怒っているのか。いや、呆れている?  この丘にまつわるジンクスについては話題にした覚えもなければ言うつもりもなかった。そっと心に秘めているだけでも駄目だったのだろうか。  とにかく誤解を解かねばならなかった。なのに言葉は喉につっかえ、音になってはくれない。  墨をべったり塗りつけたような梢がさわさわと音を立てていた。視界に広がるのは夕映えの空と朱く染まった湖。それらを背にし、ウィルトールは「でも、」とゆっくり振り返った。 「そんなに信じたいならきみに従おうか。俺は〝運任せの占い〟以下のようだから」  夜の凪いだ海を思わせる静かな声だった。逆光の中で青年の深い青藍色に射抜かれ、アデレードは身動(みじろ)ぐこともできなかった。ただ激しく騒ぐ鼓動だけが耳元で聞こえる。 「俺たちは関係ではない。わかるよね。……この丘にいて、愛を誓わないふたりは、どうなるんだっけ」 「それ、は……」 「簡単だろう?」  彼の口の端が吊り上がる。それははっとするほど鮮やかで美しい微笑みだった。 「お別れだ。俺は、きみと一緒にはいられない」
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