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* *
「姉さん今起きたんですか?」
カウチの上で膝を抱えていたアデレードは億劫そうに顔を上げた。どこに行っていたのやら、外から帰ってきたらしい弟は、未だ寝巻きに薄手のガウンを羽織っただけの姉にわざとらしく溜息をついた。
「顔色ひどいですよ。大丈夫ですか、パーティーは今夜ですよ?」
「……ねえアッシュ。わたしたちがウィルトールに会いに行ったときのこと、覚えてる?」
「はい?」
瞬時に眉間にしわを刻んだアッシュの眼差しは、言外に「何の話ですか」と尋ねていた。が、律儀に答える気はさらさらない。アデレードがじっと見つめているとやがてアッシュは視線を逸らし、拳を口許に当てた。
「シアールトのお屋敷にお邪魔したときですよね。姉さんがセイルと派手に喧嘩したこと以外はあまり記憶にありませんが……」
「そんな子どもの頃の話じゃないわ。フォルトレスト。一年前にご挨拶に伺ったでしょ。そしたら小母さまがお菓子作りを提案してくださって、習いに通わせていただけることになって。そのときのこと」
ああ、とアッシュが頷く。アデレードは抱えこんだ自らの膝頭にあごを乗せた。
「……小母さまが仰ったのよ。お料理は誰かのために作る方が気合いが入るものよって。だからわたし、作ったものを試食してもらえないかウィルトールにお願いしてみたの。でも、断られた」
「ウィルトールさんが断った? ……え、ですが、」
「正しくは、保留させてほしいって言われたんだけど」
今でこそ定期と言ってもいいくらい当たり前に時間を取ってくれているが、元々は数回程度ならという暫定的な話だった。それで始めのうちは緊張しながらお茶の用意をしていたのを覚えている。
けれどウィルトールは決まって「またおいで」と笑ってくれた。だから保留の事実もそのうち忘れてしまったのだ。ずっと会ってくれるものと信じこんだ。
──面倒に思うなら遠慮することはない。
──母の道楽に付き合うことはない。
どれもアデレードを気遣ってかけてくれた言葉だと思っていた。でも本当はウィルトール自身が気乗りしなかったのかもしれない。それならことあるごとに言っていたのも頷ける。
早とちりは十八番だなと笑っていた彼の顔がちらついた。目の縁がじんわりと熱を持ち、膝を抱える手に力が籠る。
「……優しすぎるのよウィルトール。優しすぎてずるい」
「一体どうしたんです? 朱鳥の丘に行った日はあんなに上機嫌だったじゃないですか」
「……ちょっと、放っておいて」
「姉さんは浮き沈みが激しすぎると思いますよ」
「時間までには、ちゃんと用意するわ」
たかが夢だ。そう思っても気持ちはなかなか上向いてくれそうにない。ショッピングで手を繋いだのもあの丘でのひとときも、ウィルトールにとっては単なる〝お守り〟。その可能性を否定はできないから。
「ひとまず受け取ってください」
顔を再び膝に埋めようとしたところで、それを阻むように白い長方形が鼻先に突き出された。大きさの異なる封筒が二通。
「なにこれ」
「預かってきました。ひとつはアネッサさんからですけどね。このギルマルクってあのギルマルクですか? 姉さんいつから誼があったんですか」
「……ギルマルク?」
差し出されたそれをぼんやり眺めていたアデレードは、次の瞬間引ったくるようにして受け取った。カードサイズの小さな方には見覚えのある字体でアネッサの名が綴られている。問題はもう片方の、花の絵があしらわれた封筒だ。
送り主はローディア・ギルマルク。雲の上のお嬢さまからである。
描かれているのは簡略化された薔薇であり、夢の中のマーガレットではない。とはいえこのタイミングで目にするとどこか不穏なものを感じてしまう。
「どうぞ」
見上げるとアッシュがペーパーナイフを差し出していた。
恐る恐る開いた便箋の端にも薔薇の飾り絵を認める。文面は先日の再会の件に始まり、今日また会えるのが楽しみなこと、シェアラもいるから昔話が盛り上がりそうだと綴られていた。その結びの一文にアデレードの目が留まった。
──今夜はいろいろ語り合いましょうね──
彼女の人となりを表すかのごとく流麗な文字だった。もう一度始めから読み直し、アデレードはゆっくりと顔を覆った。
* *
昼を過ぎると表門には立派な馬車が引っ切りなしに通るようになった。ポーチは次々やってくる来賓と出迎える者でごった返し、主人を降ろした馬車は押し出されるように車回しをまわって門を出ていく。
一方、別館から本館へ続く直通の道はいたって静かなものだった。歩くふたりの前後に人はいるがかなりの距離がある。姉弟が寝泊まりする館を利用する招待客はごく限られているらしい。
辿り着いた小さな門でアッシュが招待状を取り出した。慌ててアデレードもアネッサから届いたカードを提示する。
「あのぅ、〝暁の間〟へはどうやって行けばいいですか?」
「伺っております。ご案内いたします」
「姉さん、それでは後ほど」
主会場となる庭の方へ回るアッシュと別れ、アデレードは使用人の後を追いかけた。
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