7.星影に結ぶ珠

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 天は青く、肌にまとわりつく空気は温い。陽射しは幾分和らいだとはいえあたりにはまだじっとりと熱がこもっていた。じきに湖からの風がさらって、宴が盛り上がる頃には過ごしやすくなっているだろう。むしろ日が落ちれば途端に肌寒くなるのがここクラレットの気候でもある。  小さな扉をくぐって建物内に入ったアデレードたちは回廊を歩いていた。賑やかな声がする方とは反対の方へ進み、階段を上がる。静けさに支配された廊下の片側に同じような扉が幾つも並んでいた。使用人はそのうちのひとつをノックした。 「お連れいたしました」  一礼して下がる使用人と入れ替わるようにして遠慮がちに入室する。窓辺に佇んでいた佳人はアデレードと目が合うと大輪の花が綻ぶように笑んだ。 「よく似合ってるじゃないかアデレード」 「う、ほんとですか? どこもおかしくない……? ずっと鏡と睨めっこしてたら、自分じゃわからなくなってきて」 「全然心配することないよ。可愛い」  今日のために選んだのは深い緑色を基調としたドレスだった。袖や裾にたっぷりとレースを使い、腰の後ろで集めた薄地の生地はドレープ状にふんわりと垂らしている。いつも下ろしている髪は頭の横から白いリボンと一緒に編みこみ、後ろでひとつにまとめた。おかげで緑玉を使ったお揃いのイヤリングとネックレスが映える。  ドレスのあちこちを撫でたり引っ張ったりしていたアデレードは、「ウィルもきっと同じこと言うよ」という含み笑いのこもった言葉にぱあっと頰を赤らめた。からかわないでと訴えたい一方、そっと存在を主張してくる夢の欠片(かけら)に胸がちくりと痛む。  口を開けては閉じ、返す言葉に詰まっているうちにアデレードの手をアネッサが取った。 「急に呼びつけて悪かったね」 「わたしこそ……こんな直前になってしまってごめんなさい。これから準備するんですよね?」  彼女の服装を見てアデレードは首を傾げた。ひだ飾りが美しいブラウスに裾がひらひら踊る細身のスカート姿はよく似合っているが、どう見ても普段着である。だがその後平然と返された言葉にアデレードは眉を顰めることになった。 「それなら心配いらないよ。出ないから」 「……え? だってアネッサさん……あの、」 「あたしは呼ばれてなくてね。気楽なもんだよ」 「それは身内だからということじゃ」 「まあいいじゃないか。それよりあんたには連れを紹介しときたかったんだ。ずっと気にかけてくれてただろ、早く会わせたくてさ。──ディート!」  手を引かれるままテーブルについたアデレードは、つられて奥のソファに視線を投げて目を丸くした。そこに人がいると全く気づいてなかったせいもある。が、ぽかんと呆けてしまったのはまた別の理由だ。  ディートと呼ばれたその人がアデレードの方へゆっくりと歩いてきた。背が高い。それに細い。癖のない黒髪が肩上でさらさら揺れている。  長い睫毛に縁取られた瑠璃色の双眸は、一度見たら最後とても目を離せないほど魅惑的な光を湛えていた。角度によって碧色にも輝いて見えるのは、本物の瑠璃のごとく砂金の混じったような色をしているからだろうか。ウィルトールの藍色も見惚れてしまうほど綺麗だけれど、ディートの瞳も負けてはいないと感じる。  優しく弧を描く眉にすっと通った鼻筋、薄い唇。こんなに見目麗しい人を見たのは初めてだった。中性的な顔立ちとはこういう人を指すのかもしれない。  アデレードは眉を顰めた。──本当にかわからない。  以前アネッサは「旦那や恋人の類ではない」ということを言っていた。それで勝手に男性ではないらしいと思いこんだのだが、よくよく考えてみれば性別を決定し得る情報ではない。  ディートの着ているものは男物。とはいえアネッサも初見では男物を身につけていた。見た目だけで性別を判断するのは難しそうだ。 「初めまして」  耳触りの良い声は涼やかで高過ぎず、低過ぎず。女性だとすれば低めだけれど男性でもおかしくはない高さでいまいち決め手に欠ける。他に判断材料はあるだろうか──。 「おーいアデレード? 起きてるかい?」 「きゃあ!」  唐突に右肩に下ろされた手と間近で聞こえた声に思わず飛び上がった。ばくばく暴れる胸の音に落ち着けと念じながら顔を向ければ、アネッサが不思議そうな目を向けていた。 「ぼんやりして、ディートがどうかした?」 「す、すみません、あの、なんでもな……」 「私の顔に何かついてる?」 「わっ、きゃーっ!!」  今度は左側、それも想像以上に近いところから降ってきた声音と美しい顔に思わず悲鳴が口をついて出た。アデレードは弾かれたように飛びのくとアネッサの背後に回りこんだ。 「アデレード!?」 「むり、無理ですアネッサさん〜!」 「は、何が……」 「だってこんなに綺麗な人なんて思わなくて……この距離が限界です! これ以上は近づけない……」 「ええ?」  亀の甲羅のごとく背中に張りついた少女に、アネッサの口がへの字に歪む。その顔のまま正面に立つ黒髪の麗人に視線を戻したアネッサは肩を軽く竦めた。 「……だそうだよ」 「なかなか新しい反応だね。アンの知り合いなだけある」 「あたしのっていうか、ウィルの方が付き合いは長いらしくてね」 「ああウィルの」 「ウィルトールを知ってるんですか?」  もはや脊髄反射だった。ディートと視線が絡んで初めて自分が身を乗り出していることに気づき、アデレードは瞬時に身を縮めた。それでも誘惑には打ち勝てず、そうっと顔を出して控えめに返事を待つ。  ディートは唇に薄く弧を描いた。伏せた手の平を胸の下あたりに掲げ、頭を撫でるような仕草をしてみせる。 「初めて会ったときはまだ小さかったな。弟の扱いに手を焼いていた。アンに声をかけようとしてやめる姿も何度か見かけた」 「……そうだったね。あのときは本当に悪いことをした」 「本音を隠す術に長けていると思うよ、ウィルは」 「気を遣いすぎるところがあるから、あの子。何か欲求があってもだめだと悟ったらさっと引き下がる。んだよ。遠慮することないのにさ」  嘆息するアネッサにディートはふっと目を細めた。 「気持ちの切り替えが上手いと考えれば美点のひとつになる」  温度を感じさせない滑らかな彫像のようだった顔は、口角が上向いた途端温かみのあるものへと変化していた。くすくすと微笑を浮かべればまわりの空気が華やいで、まるで花畑の真ん中にいるような心持ちになる。目を離すことができないでいると視界の外でアネッサの「あ、」という声がした。 「そうだ、あんたに言付(ことづ)けがあったんだよ」 「言付け?」  誰からと呟こうとしてアデレードははっと息を呑んだ。浮かんだ推測を肯定するようにアネッサはにこりと口の端を上げた。 「会うなら渡しといてくれって言われてさ」  はいと渡されたのは小さく折り畳まれただけの紙片だった。(はや)る気持ちを抑えて開ければそこにはたった二行、こう書かれていた。  ──本館の裏手にガゼボがある。  宵の鐘が鳴る頃、そこにおいで──
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