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本館が見えてきてようやくアデレードは歩調を緩めた。振り返れば鬱蒼と茂る木々の向こうに金色の光に溢れた光景が見える気がする。セイルと、そのセイルの肩にも届かない小柄なカレンフェルテの姿が。
一体いつから──いつの間に。
恋愛どころか人を思いやることすら頭にないはずのセイルの突然の変わりっぷりには未だ狐につままれたような思いだった。縁談とはそれだけの力があるものなのか。
驚きと、未だに信じられない思いと、ほんの少しの焦燥感と。押し寄せる感情の洪水に圧倒されている。
風が梢を鳴らし、あたりの熱を奪っていく。天の彩りは金から朱へと移り変わろうとしていた。
木立の道を抜けたアデレードは深々と息を吐くとまっすぐ顔を上げた。庭園はもうそこだ。セイルのことは今は横に置いておこう。
薄暗い中、人々の話し声や食器類の鳴る音がだんだん大きくなってくる。漏れ聞こえてくる円舞曲のリズムやぼんやりと明るい建物の向こう側を見つめていると心は自然と浮き立つ。ウィルトールは見つかるだろうか。
刹那、視界は不意に暗転した。
「きゃっ!」
「わっ」
軽い衝撃とともに降ってきたのは男性特有の低い声。弾かれるように後ずさったアデレードはそのぶつかった相手を見上げ、思い切り顔を歪ませた。
「あなた──!」
長身かつ端正な顔立ち、薄暮の中でもわかる柔らかな茶色の髪。〝こんなところで会うとは思っていなかった人その二〟だった。きょとんと瞬く青藍の瞳はほどなくにっこり綻んだ。
「やあ、また会えたね。やっぱり運命なんだな、おれたち」
「違うったら! 寝言は寝てるときに言ってください!」
「今日はちゃんと起きてるし、きみのこともちゃあんと覚えてるって。安心して」
「できるわけないでしょう!?」
見目よい笑顔は何にもまして胡散臭い。
あの失礼男がなぜここにいるのだろう。そう思ったそばから全然おかしくなんかないじゃないともうひとりの自分が答える。先日の「ローディアが出席する茶会にいなかったか」というあれは、言い換えれば彼自身もお嬢さまと同等の身分であるということだ。
これこそ噛みつく勢いで唸っていると青年はますますにこやかに目を細める。その笑顔がさらにアデレードの癇に障る。
「何がおかしいんですか」
「いや、髪を上げると雰囲気変わるなぁと思ってさ。そのドレス、いいね。この間の白いワンピースも可愛かったけど」
「は……!?」
「そういやきみ、ダンスは? よかったらこのあとどうかな」
ぞわりと鳥肌が立った。
身構えるようにポーチを抱きしめ後ろに下がるアデレードに対し、男の方は「有名な曲やるんだってさ」と呑気に笑っている。例によってそよ風を味方につけ、断られる可能性など微塵も考えていないのだろう。
「冗談やめて! 彼女さんと踊ればいいじゃない」
「え、いないよ? 本命を作る気はないから、おれ」
「あのときの薔薇は? 誰にあげたの」
「薔薇? あー、あれはお兄ちゃんの彼女が来たからさ、」
「お兄さんの彼女に手を出してるの!? 最低!」
一瞬の沈黙のあと、あたりに笑い声が響き渡った。腹を抱えて笑う男の様にアデレードの顔がかっと熱くなった。今の会話のどこに笑う要素があったのか。何が可笑しかったのか。明らかなのはこの男がアデレードの発言を笑っていることと、女たらしの最低男だという事実だ。
ふと視界の端になにかが小さく映りこんだ。男の向こうに見えるのはきらびやかな庭園。談笑する楽しそうな人々。その中にアデレードの探し求めていた色があった。滑らかな蜂蜜色が薄明かりを弾く。
「ウィルトール!」
大好きな藍色の双眸が緩やかにこちらを向いた。見慣れた面差しが小さく目を見張る様がやけにゆっくりと映りこむ。
そこからどう動いたかは自分でもよくわからなかった。気づけば男の脇をすり抜けていて、そのままウィルトールの胸に飛びこんでいた。
「アディ、どうした──」
「助けて! 変な人がいるの。馴れ馴れしくて、気持ち悪くて……!」
抱きとめてくれた彼の眼差しに鋭い光が宿った。アデレードの後方を見据えながら彼女を背に庇う。
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