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夜の始まりを告げる鐘が遠くに鳴り響いていた。それすらも楽の一部となって、ひとつの曲を紡いでいく。
衆目を集めるひと組の男女──その男性の方をアデレードは食い入るように見つめていた。癖のないさらさらした茶色の髪とここからでもわかる藍色の瞳はつい先ほども目にした組み合わせである。一瞬、同一人物かと思ったが。
「わたくしまだ諦めてなくてよ」
「まあ。ジルヴェンドさまから申し込まれたら、あなたちゃんと踊れて?」
「そうね……。見つめ合うのに忙しいかもしれないわ」
「あなたたちファーライルさまに微笑まれたことないの? あの素敵さがわからないなんて」
密やかな囁きとあちらこちらで上がる羨望の溜息が耳朶を打った。
ウィルトールは嘘をつく人ではない。わかってはいてもこうして事実を突きつけられると彼は正しかったのだと再確認する。なにより長男の纏う空気は三男の持つそれと近しい気がした。先に会っていたのが彼であれば何の違和感も覚えなかったと思うのに。そうすれば次男にも失礼な言葉を並べなくて済んだかもしれない。
「誓いのワルツだわ……」
アデレードの呟きに隣でシェアラが頷いた。幾つもの音が重なりあう優美な円舞曲にうっとりと耳を澄ませる。
〝誓いのワルツ〟とはいわゆる俗称だ。祝福された恋人たちのための楽曲であり、こういう場では決まって演奏されるためアデレードなどはそう呼ぶことの方が多かった。正式名称はもっと長くて覚えにくい。
曲が終わりを告げた。本日の主役はここで退場するようだ。次の演奏に合わせて他のペアが続々と集まってくる中、仲睦まじく寄り添って会釈をするふたりは人混みに消えた。
「アデルは今、お付き合いしてる人いるの?」
「えっ」
不意打ちの問いに頰がぽっと熱を帯びた。アデレードが押し黙ると、シェアラはあっと謝罪の語を口にした。苦笑いを浮かべた彼女はそっと広場を指した。
「誓いのワルツだもん、いたら一緒に踊るよね」
「……誘ってくれたらなぁと思う人は、いるんだけど……」
両手を胸元に引き寄せた。ポーチを抱きしめる陰でこっそり青玉に触れれば、不安な気持ちが解けて吸いこまれていく心持ちがする。
だってウィルトールの持ち物を身につけているという事実がもう幸せで嬉しいのだ。彼に守られているようでもあり、「俺のもの」と主張されているようでもあり。意識が向くたび口許が緩んでしまうのはもはや仕方がない。
シェアラの視線は広場の方へ投げられた。
「安心した。アデル急に引っ越しちゃったでしょ。あのときちゃんと話聞けなかったけど、告白は多分ダメだったんだろうなと思ってたから」
「え、今なんて……」
「ねえ、ローディ来た!」
きょとんと隣を仰ぎ見る。話の内容を問う前にシェアラの関心は次に移り、アデレードは得心がいかないまま彼女の指差す先へと視線を向けた。
茜色の髪を高く結い上げた女性が出てきた。暗めの赤いドレスは光の当たり具合で真紅に輝く。髪や胸元にきらきらと光を纏い堂々たる姿で中央へ歩いてくる彼女は他の令嬢方と明らかに一線を画していた。
そのローディアの隣にある人影にアデレードは目を見開いた。
「えっ……」
お日様の光を集めて束ねたような滑らかな髪。どんなにたくさんの人がいたって見失うことはないその色。馴染みのある背格好も〝あかがねの薔薇姫〟に手を差し出す仕草も、彼が何者たるかを示している。
「どこ行くのアデル?」
背後の声に答える余裕はなかった。ふたりの姿がもっと良く見えるところへ、少しでも近くへと観衆を掻きわけていく。
本日二度目のワルツを弦楽器が高らかに歌い出した。
はあ、と肩で大きく息をつき、アデレードは再び広場に顔を向けた。ふたりとの距離はさっきよりも近い。優雅にステップを踏む人々の中で一際目を引く茜色の髪がふわりと宙を舞い、真紅のドレスが広がる。それを追いかけ翻るのは濃紺の長衣。背に流れる蜂蜜色の髪と、裾に施された銀糸の刺繍が薄明かりを弾く。
「アデル、走るの速いよ」
隣に並んだシェアラは一息つくと、広がる光景に目を和ませた。
「ほんとよかった。ローディずっと待ってたんだもん。お披露目会がクラレットであるってわかったときの喜びようったらなかったよ。ちゃんとした話はこれからみたいだけどアデルはどう思う? ローディがフォルトレストに行くのかな」
「ねえ、ローディアさんってウィルトールのこと……」
「ん?」
「ウィルトールを……、あの、本当に……?」
震える唇ではそう言うのが精一杯だった。小首を傾げていたシェアラは不思議そうに頷いた。
「もう公認じゃない? だって誘拐されて、助けにきてくれたら誰だって好きになるよ」
「誘拐!? ローディアさんが、ゆう──」
「アデル、声が大きい」
しっと人差し指を立てたシェアラにアデレードは慌てて口を覆う。
どちらからともなく人の輪から外れた。シェアラはあらためて向き直ると声を潜めた。
「未遂だからね。ウィルトールさまのおかげで大事にならずに済んだんだから」
「……そうなの? そんな話、ウィルトールからは一言も、」
「知らなかった?」
こくんと頷く。
これまで思い出話として上がってきたのはウィルトールがシアールトに移ってきた頃のことがほとんどだ。クラレットから馬車で少し行った先にある自然いっぱいの村シアールト。まだ幼かったアデレードが全力で彼を困らせていただろう時期のこと。
幼児期の朧げな記憶と様々な思いこみが、ウィルトールのもたらす真実によって往々に補完されてきた。言い換えればその頃の思い出の方が双方の記憶にギャップがあり、話に花が咲いた。
「無理ないかもね、アデルは引っ越しのバタバタもあっただろうし」
「七年前にそんなことがあったなんて……」
「なな? ……違う違う、六年前。アデルが告白するって言ってた前後だよ確か」
「……告白?」
胸がざわりと騒いだ。腕組みをするシェアラは「っていうかさ」と苦笑を漏らした。
「さっきから思ってたけどいつまでも呼び捨てはまずいと思うよ。いくら幼馴染って言ってもこれからは妻帯者になるわけだし。ローディだっていい気はしないんじゃない」
「待ってシェアラ、告白って? 何の話をしてるの」
「それこっちの台詞!」
アデレードが詰め寄ると彼女は憤慨したように両腕を腰にやった。
「フラれたんでしょ? 複雑なのはわかるけど、潔くローディとウィルトールさまを祝福しなくちゃ」
シェアラとは他に何を話しただろう。顔色の悪さを指摘された気がしたが会話は途中から不明瞭でよくわからない。
だけどもうどうでもいいのだ。今は約束を守ることだけを考えればいい。
心臓の音が耳元で激しく騒ぎ立てていた。陽の落ちた森はおどろおどろしく、ともすれば梢が作り出す闇に吸いこまれそうな錯覚に陥る。それでも所々に射す星明かりを頼りにアデレードは駆けた。
この暗い道はどこまで続くのか。さっきはすぐ抜けたと思ったけれど──。
何枚もの羽根を束ねたような感触が頬を掠めた。それが低い位置から伸びた若い枝だったとは後から思い至ったことだ。斜め後ろから髪を引っ張られ、アデレードは思わず足を止めた。
「痛っ……あっ」
──止めたつもりだった。重心をかけた足がずるりと滑り、尻餅をつく。地面についた手の平が濡れた草の感触を伝えたときにはもう身体の下に地面はなかった。再度衝撃が襲い、あとは斜面を滑り落ちていく。
意識が暗転する直前、眩い光が弾けた気がした。
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