7.星影に結ぶ珠

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 朱鳥の丘に行ったのは日暮れがすっかり早くなった頃のことだった。アデレードから手紙を貰ったウィルトールは、ふたりで夕景をしばらく楽しんだあと帰途に着いた。 「きみはひとりで帰ると言って、俺は湖で遊んでたセイルとアッシュを迎えにいった。アッシュを送っていったら、アディはまだ帰ってなかった。随分前に別れたのに」  ウィルトールは即座に引き返した。アデレードの家から丘までの最短ルート──帰ってくる彼女と出くわすことを期待して。  大通りに出ると道の真ん中をふらふら歩く赤毛の女性(ローディア)が真っ先に目に入った。始めはそれがアデレードかと思った。すぐに人違いと気づき、そのまま通りすぎようとした。  事態を変えたのは猛スピードで突っこんでくる荷馬車だ。考えるより先に身体は動いた。彼女を抱き寄せて間もなく、聞いたことのない轟音があたりに響いた。辻を曲がりきれなかった暴走車が角の店舗に突っこんだのだ。  ひとまずローディアを道端に誘導すると、ウィルトールはひっくり返った荷馬車に駆け寄った。手綱を取っていた一人はよろめきながらもあさっての方向へ走り去り、荷台にいた一人は出てくるや否や殴りかかってきた。その腕を(かわ)(ざま)に掴んだウィルトールは後ろ手に捻り上げた。流れるような一連の動きはもはや身体に染みついたものだ。  やがて駆けつけたのはギルマルク家の私兵だった。逃げた方の男も取り押さえられると、状況や目撃者の証言からウィルトールは騒動解決の立役者に仕立て上げられていた。中でも当事者であるローディアがウィルトールに救い出された、誘拐犯から命がけで守ってもらったと話したことが大きい。 「荷馬車を避けたことに対しての礼はわかる。でも誇張する必要はないはずだろう。彼女は実際にはさらわれてない。犯人にしても向かってきたから相手をしただけで、素性だって俺は知らなかった。本当に誘拐の計画があったのかどうかも。ただ、当時の薔薇姫には縁談が持ち上がっていたらしい。結局はなかったことになったようだけど」 「えんだん……」 「念のために言っておくけど俺じゃないよ。昔も、今もね」 「ローディアさんに縁談が……え、今?」  膝の上で拳を握りこんでいたアデレードはきょとんと目を(しばたた)かせた。始めから俺の出る幕じゃなかったんだよとウィルトールは肩を竦める。  騒動についての諸々は後から聞かされた話だ。当時の縁談に対して彼女が不満を覚えていたらしいこともそのとき知った。とはいえ蚊帳の外に置かれたウィルトールには見えない部分も多く、彼女がした証言の是非を問いたかった。  そしてもうひとつ、彼女には聞いておきたいこともあった。 「ノイラート子爵は了解しているのか?」  軽い挨拶を交わすとウィルトールは単刀直入に尋ねた。ローディアの顔から笑みが消え、瞳が怪訝な色を帯びる。 「ノイラート子爵ライナス殿は今夜の招待客ではないが。ライナス殿にしてみればなんて快くは思わないだろう?」 「……ご存じだったのですか」 「人の口に戸は立てられない。どうも俺たちは昔何かあったと誤解されているようだし」 「構いません。障りになるならそれまでのこと」  今度はウィルトールの方が訝しむ番だった。  ローディアは、ふいと顔を背けた。結い上げた豊かな茜色の髪が横顔を隠しどんな表情を浮かべているかはわからない。 「親が勝手に進めている縁談です。父にとって私は駒のひとつに過ぎません。今日のこの我が儘だって、父にしてみれば頬を撫でるそよ風みたいなものでしょう。私に成せることなど何もないのです」 「……まさかきみは、で六年前も嘘を言ったのか? 誘拐された。それを俺に救われたと」 「まぁ。なんてことを」  彼女がゆったりと振り向いた。感情の読めない瞳がウィルトールを捉える。 「……私は嘘など申しません。誘拐の計画は本当にあったのです。ヴァルム伯爵は一部から恨みを買っておいでのようでしたから。ウィルトールさまがいらっしゃなかったらきっと私も巻きこまれていたでしょう。危うくとんでもない方の元に嫁がされるところでした」 「恨みを……?」 「ウィルトールさまには心から感謝しております。私に〝幸運〟をもたらしてくださるお方……」  そうして紅をさした唇がはっとするほど美しく弧を描いた。 「私たちの幸せな未来のために、今宵は楽しい時を過ごしましょう」  ローディアは上目遣いにウィルトールを見つめる。双眸の奥に潜むのは拒絶の色。内情をよく知らないから話せないのではない。から話さないのだと、ウィルトールに向けられた琥珀色の瞳からは読み取れた。  それ以上相手にしたところで時間の無駄だった。わかったのは彼女が見ているのはウィルトールではないということ。決して心の内を見せず、自らのことにしか関心がない者にはこちらも心を砕いてやる価値などない。  虚空を見つめる青年の瞳には蒼い炎が揺らめいていた。ウィルトールにとって一番の関心は他にあった。 「誘拐未遂だけが大きく取り上げられたけど、あの事故は怪我人を何人か出してる」 「知ってる人がいたの……?」 「……よく知ってる子だよ」  静寂が訪れた。ゆっくり振り向いたウィルトールと視線が絡むとアデレードの心臓が大きく跳ねた。 「……あ」 「倒れたときに頭を打った。時間か場所があと少しずれていたら、本当に危なかったって」 「わたし……?」  掠れた声が沈黙を破ると彼は再び目を伏せた。 「──俺が知ってるのはそこまでなんだ。一家は時を置かずにクラレットを出てしまったし、アディがはっきり目を覚ましたのはそのあとだそうだから。記憶はいつか戻るかもしれない。思い出さないままかもしれない。誰にもわからない」  ウィルトールはアデレードの手の下にあった便箋を封筒ごと抜き取った。そのときになって手紙が実は二枚綴りだったことにアデレードは気づいた。  ──確かシェアラはもうひとつ重要なことを言っていなかったか。 「待って、もう一度見せて」 「え?」 「手紙。最後まで読んでないわ」 「まだ疑ってる?」 「それを確かめたいの」  ウィルトールは軽く首を傾け、一度は封筒に納めた便箋を再び開いた。めくった一枚目を後ろに送ったのを見て、てっきり親切心からの行為だと思った。手の平を上向けたアデレードに対し、彼は僅かに身体を背けた。 「──『それからね、もうひとつ言いたいことがあるの』」 「えっ……ウィルトール、ねえ貸して」 「『ずっと迷ってたけど、思い切って書きます。わたしは、』」 「やだ! わかったからやめて!!」  アデレードは弾かれたように立ち上がると、彼が伸ばした手の先──アデレードから遠ざけるようにわざと反対の方へ掲げられていた手紙に飛びついた。奪い取った便箋は両手でくしゃくしゃに潰して小さな玉にしてしまう。  湖に向かって振りかぶった。渾身の力で投げられた白い塊はあっという間に闇に消えた。紙であるが故か、それらしい水音すらしなかった。代わりに背後で「あっ」と小さな声が響く。  薄明かりの中、ゆらりと腰を上げたウィルトールの顔はただただ呆気にとられているようだった。アデレードは両拳をぐっと握りこむと大きく息を吸いこんだ。 「ごめんなさい! なかったことにして!」 「……アディ?」 「だって覚えてないんだもの。あんなの知らない。だからウィルトールも忘れて……!」 「アディ、」  ウィルトールが一歩踏み出した。ぱっと身を翻したアデレードと、少女の手が彼に囚われたのはほぼ同時のことだった。引き寄せられてたたらを踏む。 「ごめん、からかって悪かった。落ち着いて」 「十分落ち着いてるわ! だから全部なかったことにして」 「何を? 手紙、それとも」 「全部って言ったら全部! じゃないと困るの!」  ひとときの間が落ちた。しばらく視線を絡ませたあとウィルトールは「わかった」と小さな呟きを唇に乗せた。アデレードはほっと息をつく。その一瞬の隙に両肩を掴まれ、身体ごと正面に向き直させられた。 「……具体的に教えて。どこからどこまでを全部とするのか」
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