第1章

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第1章

 平凡を愛し平凡に愛された男、……という少し前に流行った芸人みたいなフレーズが、鳩山(はとやま)遥斗(はると)の人生のテーマだ。自分は『普通』の二文字が似合う人間だと遥斗は思う。  濡羽色の髪も、少しばかり垂れた目も下がり気味の口角も、強いて言えば挙がる程度の特徴に過ぎない。人混みに埋没しそうな凡庸さこそが自分の個性で、きっと平均的な給料をもらい平均的な年齢で結婚し、平均的な家庭を持つのだろうと考えていた。  けれど大学四年の夏季休暇初日、遥斗の目の前にあるローテーブルには、書きかけの婚姻届が乗る。夫の欄に書かれるのは『皆見(みなみ)(あき)』という名と、住所や生年月日等の個人情報だ。 「紙切れ一枚でも、やっぱこういうのはちゃんとしておかねえとな」  今しがた婚姻届を書き終えたばかりの年上の男……暁は、ローテーブルを挟んだ正面からボールペンを差し出してくる。おずおずと受け取ると、遥斗は茶色で印刷された文字を見つめた。まさか二十二にしてこの用紙と対面することになろうとは。父さん、母さん。学生という身分でありながら、あなた方の許可なく結婚する身勝手をお許しください……。  遥斗の無言を書き方が分からないためと取ったようで、暁が夫の右隣の欄を指でつつく。 「ここな。遥斗くんは妻の欄を記入すんの」  ……父さん、母さん。しかも俺が嫁です。  出版社に勤務する十五歳離れた姉の菜摘(なつみ)が、「夏休みの間、住み込みの家政夫としてバイトする気ない?」と尋ねてきたのが今から二週間前だ。相手は菜摘が担当編集を務める小説家だという。遥斗はすでに書店でバイトをしているが、それと並行して働けると聞いて了承した。一日一万五千円という素人相手にしてはやたら好待遇な給与は気にかかったが、菜摘が紹介する相手なら大丈夫だろうと踏む。菜摘と二人で暮らすアパートを出る計画があり、まとまった金が必要だったのも大きい。  菜摘に返事をした遥斗は、同居する人物を聞いて驚愕する。相手は人気の高い恋愛小説家・みなみ亜紀(あき)だった。
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