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長い時間をかけ食事を終え、八雲は畳の上の枝豆から、庭の物干し竿の洗濯に移り変わった背中に声を掛けた。
「ちょっと出てくる」
子供用の下着を手に、村上は驚いたように振り向く。その瞳には、隠しようのない重い不安が滲んでいた。
八雲は知っていた。優しい村上が、二年と言う長い空白の時間に対して何を思っているのか。そして、あの絶対的な支配を断ち切る手段について、どれだけ悪い妄想を繰り返しているか。
「心配しなくても、本当に全て済んだから」
八雲はそんな村上に微笑みかけ、そして微かに俯いた。
「少し手間取ってね、疲れただけ」
村上から言葉はなく、八雲はひとり重い足を引き摺って坂を下った。
景色をゆっくりと撫でながら当てもなく歩く。眼前に広がる青い稲穂はまるで毛足の長い絨毯のよう。吹き降りる風の軌跡を描きながら揺れている。都会で生まれ、都会で育ち、東京から遠く離れた事もなかった。自由など許されなかった。小笠原と言うたった一人の男の手の中、消えてゆくはずだった。
生まれたての風を肺に吸い込み、深く吐き出す。息を吸う事さえ、自由に出来る。
終わったのだ──全てが。
そう実感した瞬間、堰を切ったように涙が溢れた。突然拓けた未来に確かに存在する幸福を見付けるたび、息が詰まる。確かな喪失感だけが八雲の胸をはげしく叩く。
こんな自分が、悲劇を乗り越え健やかに成長する少年の傍で見守る事の出来る喜びを噛み締めていいのか。本能の求めるままあの男の想いを受け止める資格があるのか。
震える身体を抱き締めて、八雲は長い事草陰で蹲っていた。
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