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視界を横切った男に、見覚えがあるような気がした。
薄汚れたコートの背中は川へ入り、すぐに見失う。
手に、固い感触を思い出した。
きっとここは、何かで読んだ、地獄の入口だろう。
死者を悼む涙でできた河を渡り、責め苦を受けるのだ。
ならば、自分がここへ居るのは。
ずきりと腹が疼く。
出ない血の代わりに、記憶がにじむ。
水路へ沈めた。奈落へ落とした。口をふさいだ。首筋を切った。
追いかけられるのが怖くてやった事。
殺されたくなくて、やった事。
あの好奇の目。妙な熱を持って笑う顔。
こんな、顔の半分爛れた孤児に何故。
いつの間にか、怪人と呼ばれていた。
地下に棲む、恐ろしい魔物と。
それでも住み処に押し入る者は絶えず、逃げる日ばかりだったように思う。
シャンデリアを落としたときは、後を振り返りも出来なかった。
明るい場所へ、初めて出た。彼女を助けようと、ただそれだけで。
――彼女とは誰だろうか。
ふと空虚な穴を見つけてしまい、歩く死者達を見上げた。
彼らは、こんな事を、記憶や恐怖や悲しみを、持っていないのだろうか。
そばを歩く者の袖を引く。
呆気なく倒れ込んだ警官は、しばらくそのままだった。やがてのそのそと起き上がり、振り向きもせず、また川へ向けて歩き出した。
老人も婦人も子供も貴族も使用人も、引き倒しても組み敷いても、抵抗も反抗も止めもしない。皆ぼんやりとして、僕を見ることすら無い。
誰も僕を見ていない。
追われも避けられもしない。
死者の国とは何と素晴らしい所か。
立ち上がれば、膝の下に居た男がのろのろと起き上がり、川へ歩き出した。
では、皆が向かうあの川の先には、何があるのだろう。
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