日本語版 生命と存在の記憶

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共産主義は、まさしく全体主義を見越して発明された抽象的な考えで、かつ、疑似の唯物論でもあり、自由で人間的な活力をすべて凍結するようにできている。支配するものが支配されるものを永遠に統治する。力を持とうとするものは、最悪、社会的かつ肉体的に、抹殺される。共産主義は、社会、組織かつ経済における流動性と、決して両立することはない。共産主義は、自然の摂理とは完璧に両立することはない。 資本主義はどうか? これは、抽象的な考えではない。投資をベースとした実際の人間的活力の自由な発露であり、経済、社会、政治、文化、あるいは生命宇宙で生き延びることを試みるすべての活動を指し、人は絶対的な流動性を謳歌する。資本主義は、よって、資本を利用して人が生きようとする自由な意志を具現するものとなる。 では、金融資本主義はどうか? これこそ自然の摂理と両立できない抽象的な考えだ。人間の活力が活用する自由な資本主義とは、なんの関係もない。ある種、詐欺まがいの精神が、自由奔放な資本主義を支配しようとして考えだした、邪悪な概念だ。この邪悪な精神はどこから来るのか? いうまでもなく、資本主義は投資に依存し、投資は資本主義の円滑な運営を担保する。そうとすれば、質問が一つ生じる。資本はだれが投資するのか?という質問だ。  答えは金融資本家だ。そして資本家は、一旦だれかに投資すると、投資を受ける側を支配しはじめる。年が経つにつれ、ある時点で資本家は、投資を受ける側の生殺与奪の権をにぎるほど、自身に比類ない優越性があることに気づく。結果、資本家は、この特権を永続化したいという思いにいたる。そのために、自由な資本主義の活力に不可欠な、あらゆる流動性を無効にし、全体主義の体制を構築しようとする。
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