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ふと林の視線がカウンターの隅で客の男から会計を受け取るユーリンの姿を捉える。数枚のお札を握った手には、黒いゴム手袋。そこで林は彼と重ねた夜の事を思い出した。白いシーツを握り締めていたその指先の、隠された傷痕──。
「あの子さ。片方の爪、全部無かったよ」
その言葉に、棗は珍しくあからさまに眉を顰めた。
「訳ありって?」
「遊びならもっと上手くやって下さいね」
半ば食うように被せられ、林は微かな勝算を見ていた。触れられたくないその傷を引き合いに、もしかしたらこの男が手に入るのではないか、と。
「棗さんが遊んでくれるなら、もう手は出さない」
だが愚かな林を嘲笑うかのよう、棗は冷ややかながら妖艶に微笑んで見せた。
「僕が、誰のものでもないと思っています?」
「え、嘘でしょ?」
「秘密ですよ。林さんにしか言っていないんですから」
人差し指を口に立て肩を竦める姿は少年のように可憐で、だがその若さに見合わぬ落ち着いた濃密な色気は、数多の愛を手にし棄て去った老貴婦人と似通ったものに思われた。男女どちらをも虜にしてしまうこれ程贅沢な魅力を兼ね備えた青年が、まさか誰の手にも落ちていない訳がない。
あわよくば──それすらも捻り潰され、林は脱力感に苛まれ視線を逸らした。その先で、自身をじっと見詰める瞳が待ち構えていた。
「……惚れられたんですかね」
ぽつりと呟いた林の前で、棗は素知らぬ顔でグラスを磨いている。
「聞いてみたら如何です?」
「言葉が分からないんでしょう?俺がここでどんなに罵ったって、彼には雑音にしか捉えられない」
棗が何かを言おうとした時、カウンターの客が席を立った。彼は慌てたように上着を取ると、カウンターから出て、客の見送りに向かった。
「有難う御座いました」
耳心地の良い声が遠退いてゆく。
林はグラスに残った酒を煽り、再び視線を感じてそちらを見た。やはり、ユーリンが真っ直ぐに自身を見詰めている。粘り着くような、余りにも熱っぽい視線。
「俺に惚れたの?とんだマゾヒストだな」
その挑発は、当然彼には伝わらない。だから林は育ちきった嗜虐心の囁くまま、唇に人差し指を当てて見せた。その瞬間、ユーリンの瞳が、先程よりも潤んだような気がした。
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