異国の蝶

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 何時も通り、一等地に構えた高層ビルのオフィスで仕事をして、帰りには仲間達と飲み、そんな日々を繰り返しているうちに、気付けば林は週に二、三度は路地裏に立っていた。繁華街の雑音さえも遮断され、目の前に佇む漆黒の扉。静寂の中で最も清廉であるかのような面に誘われるまま、林は扉のを押し開けた。 「今晩は、林さん」  薄暗いバーカウンターの棗は変わらずに美しく、澄み通る声で林を迎えた。  その日は既に終電も終わっており、挙句強い雨が降っていたからか店内にはカウンターの隅に前にも見かけた大柄の男がひとりいるだけであった。その前には棗ではなく、ユーリンの姿がある。普段口を開かない彼は、男と楽し気に会話をしている。  棗に促され席に着くなり、林は何処か面白くない心地がして、カウンターの隅を横柄に顎で指した。 「あれは?」  林から受け取ったスーツの水滴を拭っていた棗は、そちらに視線を向けると、ああと小さく零した。 「長く贔屓にして下さっている方です。中国語が堪能なので、通訳もして頂いていて」 「ユーリンのこれですか?」  親指を立てる林に、棗は困ったように微笑んだ。 「ユーリンは彼が日本に連れて来たのですよ」  ふと黒いゴム手袋を思い出し、林は彼が母国にいた頃一体どう言う生活をしていたのかと一瞬思案した。その小さな興味に駆られ、スーツから移り変わり、今はいつものようにグラスに視線を落とす棗に問い掛ける。 「中国ってキリスト教が主流なのでしたっけ?」  林自身、あまりその印象を持っていなかったが、ユーリンは確かにロザリオを肌身離さず首から下げているようだ。今だってきっと、あの黒いシャツの下には十字架に架けられた男が項垂れているのだろう。
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