異国の蝶

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 林にしてみれば、それは何の事はない世間話の筈だった。だがゆっくりと視線を上げた棗の瞳は、何処か哀しく揺れていた。 「勿論、中国でキリスト教は認められていますし、キリスト教を信仰する方は沢山います。ですが、公認の教会は政府の監視下に置かれるものですから、その政府に不満を抱く人々は地下協会に通わざるを得ないそうですよ。ですが地下協会への弾圧は、凡そ僕達には想像も付かないものらしくて。聞いた話しですけれど、僻村に地下協会の指導者の息子がいてね、その青年の父親はカルト教の指導者として政府に追われていたんです。長い事その人は逃げていて、皆彼の居所を明かそうとはしなかった。遂に業を煮やした政府によって、その息子は酷い拷問に掛けられたのですって」  林は心臓がぎくりと竦み上がる感覚を覚え、無意識にユーリンに視線を向けていた。漆黒の双眸は林を真っ直ぐに射抜いており、熱く濡れている。だが一方で、言葉が分からぬ筈なのに、やはりまるで自身を責めているような心地がした。 「……何それ、本当の話し?」  その視線から逃れるように問う。 「さあ、どうでしょう。聞いた話ですから。でもね、当然世界はここにあるだけじゃない。もしかしたら貴方の目の前にいるこの僕も、世界的な麻薬王の囲い者かも知れませんよ」  核心は明かさずに、棗はそう言って悪戯に微笑むばかりであった。 「ユーリンが、そうだって言うんですか?だから、爪が──」  林はその先を言い淀んだ。カウンターの隅の男が、ゆっくりと視線だけをこちらに向けたからだ。その瞳は恐ろしく深い、闇の底を写している。この日本に於いて、他者との圧倒的な違いを感じた事はこれまでなかった。海外からこちらに来た人に会っても、当然少しは色の違いを感じるが、皆元を正せば同じ人間であると言う感想を持つ事は、何も林だけでは無いはずだ。
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