異国の蝶

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 降り頻る雨。重い雨粒が肩で跳ね、砕け散って地面に吸い込まれてゆく中を、林はひとりマンションへと帰った。  あの棗が、他者を愛している。それだけでどうしてこんなに美しくも狂おしいのか。棗の為にも、ユーリンとはもう終わりにしよう。そもそもおかしかったのだ。ひとりに固執してしまうなんて、らしくない。  林はその苛立ちを噛み、身体をソファに投げた。無理矢理に瞼を閉じる。酒の所為か、酷く視界は混濁していて、時折閃光のように何かが淀む。最近よく見るようになった幻覚。美しい、瑠璃色の蝶の呪い。赦して欲しいのか、罰して欲しいのか、そのどちらでもないのか──。そして何故、そんな子供の頃の記憶に囚われているのかを考え、林は思わず深い溜息を漏らした。あの蝶を殺してしまった事は、生きてきた中で一番の重い罪だ。棗の言う通り、やはり自分が平和に背徳を感じているのではないかと思い及んだ時だった。  突然インターホンが鳴った。こんな真夜中に一体誰だとモニターに向かい、林は言葉を失った。画面の向こうに、ユーリンが立っていたのだ。今日は合図もしていないし、それにもう二度と手を出すつもりもなかった。今会えばどうにかなってしまいそうで、だが一方では、これも良い機会なのだと林は感じた。  オートロックを解除し、暫く。何時ものようにユーリンが扉の前で小さくノックをした。林は暗い顔のまま扉を開きユーリンを招き入れる。何時もならここでも乱暴に抱いていたからか、ユーリンは林が直ぐリビングに踵を返した事に狼狽えていた。  まるで迷子の仔犬のように不安気な様子を隠さないユーリンをソファへと座らせその足元に膝を着き、林は不実な己が出来る精一杯の誠意で彼に向き合おうと決めていた。 「棗さんに教えてもらった。君が、どうして日本に来たのか」  そっと握り締めた掌は、冷たいゴム手袋を着ている。白いシーツを握り締めていたその指先を思い、初めて林は生爪を剥がされる痛みを想像した。きっと、この細い指に似合う桜色の美しい爪だったのだろう。神を信じていただけで、父を想っていただけで──。 「辛い……思いをして来たんだね」  そんな事も知らず弄んだ事を、林は初めて恥じた。想像は出来た筈だ。全ての爪がないなど、普通ではないのだから。いっそ罵って欲しいと願っても、ユーリンがこの言葉を理解している筈がない。この懺悔も自己満足で終わるのだろう。
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