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「何をしているんですか?」
不意にユーリンの傍らに寄り添うように現れた棗は、和かな笑みに隠し、釘をさすように林に視線を投げた。林は一瞬息を詰め、それでも何事もないように、微笑んで見せた。
「手相でも見ようかなって」
棗はへえと小さく漏らし、スラックスのポケットから携帯を取り出し何かを打ち込むと、直ぐにユーリンの顔を覗き込み、優しく微笑んだ。
「ユーリン、タァカンショーシャン」
ユーリンは少し考えた後に小さく頷き、黒いゴムの手袋を脱ぐと再び手を差し出して見せた。棗がたどたどしい中国語で彼に何を言ったのか、当然林にはまるで分からない。
「何て言ったの?」
「彼が手相を見てくれる、と。今は便利ですね」
そう言って携帯を振ると、棗は思い出したように林の背後に視線を投げた。その先を追って、林は思わず小さな悲鳴を上げそうになる。林の背後には、音も無く男が立ち竦んでいたのだ。
その男は確かにこの店にいた。林が来る前から、カウンターの端にずっと鎮座していた。だがまるで気配を消しているかのようで、これ程の大男にも関わらず今の今までその存在を意識する事は無かった。目尻の垂れた三白眼は、まるで凍る湖畔のように静かで、その身体から流れ出る空気は、宛ら抜き身の刃。言うなれば手負いの獅子。相手は客なのだから仕方の無い事だが、林は棗が不憫に思った。しかし、当の本人は何ら怯える様子もなく、それどころか分け隔てない微笑で男に軽く頭を下げた。
「ごめんなさい、直ぐに。林さん、ほんの少しだけ出ますので、ユーリンの事くれぐれも宜しくお願いしますね」
林にも頭を下げると、棗は大柄な男の腰に軽く手を添え、漆黒の扉に消えて行った。
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