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ふと気付けば、店内に客は林の他にはいなかった。林は未だに差し出されていたユーリンの手を左手で優しく握ると、自身の唇に右手の人差し指を当てて見せた。彼は戸惑いながら、同じように唇に人差し指を当てる。
「この後、俺の部屋で飲み直さないか?」
林はそう言うと、ゆっくり頷いた。ユーリンはそれを真似るよう、恐る恐る首を縦に振った。
重い背徳心の齎す悦が、林の身も心も蝕んでいた。繋いだ手を軽く引く。反動でよろけたユーリンが一歩近付いたその隙を突いて、林は薄く開いた唇を、己の唇で塞いだ。ユーリンは一瞬、何が起こったのかを理解出来ず、だが直ぐに弾かれるように飛び退いた。唇を両手で覆い、瞳を見開くユーリンに微笑みかけながら、林は棗に倣い、携帯で素早く打ち込んだ言葉をバーカウンター越しにユーリンに向ける。その瞬間、白い頬が燃えるように色付く。耳までも赤く染まってゆく様は、薄暗い店内でもよく分かる。相変わらず怯えた様子だが、それは嫌悪感ではない。
「それじゃあ」
自宅マンションの住所をコースターに素早く書き、林は未だ呆然としているユーリンの白いワイシャツとタブリエの間に差し込み、少し多めの金を置いて、店を後にした。
店を出てタクシー乗り込んだ林は、脳の深くまで酒が回る感覚に酔い痴れる。〝話しがしたいから、仕事が終わったらここに来て欲しい〟と、インターネットの翻訳サイトで素早く中国語へと変換したそのメッセージは、ユーリンの反応を見る限りしっかり伝わっている。来る来ないは全く彼の自由。こんな横暴な振る舞いをしておいて、それは来ない可能性の方が大きい。だが、万が一にも来るかも知れない。何方に転んでも、林は良かった。彼を待つ間心を蝕む焦燥すら、堪らない快感なのだ。
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