毀傷《きしょう》

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 舗装されていない土埃のたつ道路を大勢の大人達が歩いている音がした。排気ガスを撒き散らす古いトラックが目の前を通り過ぎ,鼻の奥を焼くような煙が私を包み込んだ。 『今度はなに? もうやだよ!! 夢なら覚めて!! 怖いよ!!』  目蓋の向こうでチラチラと光を感じ,恐る恐る目を開けると,左手を薄汚れた包帯でグルグル巻きにした妊婦が裸電球がぶら下がるカビ臭い汚い部屋の片隅に座っていた。  雑巾のような着物を身にまとい,微かに見える肌は黒く変色し,あちこちに酷い火傷の痕が見えた。部屋の湿気に関係なく乾燥し薄汚れた髪の毛が表情を隠していたが,口元が僅かに動いていた。  聞き取れない小さな声が,まるで重たい鎖のように私の心に巻き付いてくるように思えた。ぼそぼそとつぶやく口元からはよだれが垂れ,ひび割れた唇は血が滲んでいた。  唇が微かに開くたびにそこにあるはずの歯が見えず,大量のよだれが垂れたかと思うと,まるで生物のように口から垂れたよだれが糸を引いて床を這いずり回っているかのように見えた。 『なんなの……マジでキモイよ……』  妊婦は口元を緩ませ,微笑んでいるかのような表情を見せた。ゆっくりと頭をあげてゆくと,そこには傷だらけではあったら身体に比べると綺麗な肌の顔が汚らしい髪の毛の向こうにあった。左右ばらばらに激しく痙攣する眼球が一瞬止まったかと思うと,私を凝視した。 「ねぇ,誰かいる……?」  なんとか聞き取れる程度の小さな声が唇から漏れ,言葉が床に落ちるようにぼそぼそとつぶやいていた。ひび割れた唇が歪み,血が滲んだ。 「そこに誰かいるの……?」  身体が震え,呼吸のしかたを忘れてしまったかのように息苦しくなった。なにもできずに黙っていると,頭の後ろでトラックがタイヤを軋ませながら走りすぎていった。その瞬間,目の前の妊婦は目を見開き,再び私を凝視していた。
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