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「ああ……なんだ……」
妊婦はゆっくりと頭を下げてゆくと,俯いたままブツブツとなにかを呟いていた。その姿はまるでゴミの中から出てきたホームレスのようで,俯くと性別すらわからなくなった。
「なんだ……穢れか……ふふ」
妊婦は二度と頭をもたげることはなかったが,お経のような不思議な音階の言葉が重たく部屋のなかを這いずり回った。私はその言葉に脚を絡まれたような気がしたが,目の前の妊婦はゆっくりと小さくなってゆき,やがて真っ黒な煤のように消えた。
「穢れかぁぁ……ふふふ……みぃつけたぁぁぁ……」
最後の言葉が不快な異物のように私の頭の中に残された。目の前にいた妊婦は幻覚か夢なのかわからず,あれがお婆ちゃんだと感じた自分が気持ち悪かった。
瞼の奥にチラチラと裸電球の不快な光を感じ,目の前にいた汚い着物姿の妊婦の異様な目が頭の中に浮かび,私の心を掻き乱そうとしているように思えた。焼けるような排気ガスの臭いが鼻をつき,頭が割れるように痛くなった。
どこか遠くで私を呼んでいるような気がして,頭痛に耐えながら周りを見回した。汚い部屋と三開いた瞳,バチンという音ともに宙を舞う指先,酷い火傷の痕,部屋を埋め尽くす白魚のような生物,錆びた鋏の歯が驚くほど高速で頭の中を駆け巡った。
「ねぇ,お姉ちゃん。ちゃんと聞いてる? お母さんも私達が叔父さんちに行くこと,反対しないんだよ? ねぇ,お姉ちゃん。ねぇ,ちゃんと聞いてる?」
突然,生活音が聞こえ,聴き慣れた妹の声が耳に入ってきた。現実に引き戻された瞬間,頭の中でさっきまで見ていた光景が溶け合うように絡み合い,なにが現実で,なにが幻覚なのかがわからず混乱した。
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