毀傷《きしょう》

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 私のまったく知らない若いころのお婆ちゃんの姿を想像してみたが,驚くほどなにも思い浮かばなかった。どんな幼少期を過ごしたのだろうか,どんな学生時代を送ったのだろうか,恋愛はしたのだろうか,勉強はできたのだろうか,運動神経はよかったのだろうか,お婆ちゃんのことをなにも知らないどころか,その容姿の想像すらできなかった。  私が知っていることをつなぎ合わせると,地方で学校の先生をしていた男に嫁ぎ,子供を産み育てたお婆ちゃんは,お爺ちゃんにとっては女ではなく世間体を気にするための道具でしかなく,子供を産む機械と同じだった。  ストレス発散のための物と同じで,気に入らなければ好きなだけ殴り,気が済むまで蹴る。そんな左手の指先を斬り落とすような男のために涙を流すお婆ちゃんが理解できなかった。 「ねぇ……お父さんはお婆ちゃんが殴られてるところ,見たことあるの?」  父親の気まずそうな表情ですぐに理解できたが,私は黙って父親の言葉を待った。家族を目の前にして,申し訳なさそうにため息をつくと,微かに震える声で話はじめた。 「お父さんも兄弟も全員見ていた……お袋が血だらけになるまで殴り,倒れているのに蹴り続ける親父の姿を。みんな……子供心に怖くてなにもできなかったんだ……酒の入った親父は本当に怖かった……」 「お婆ちゃん,可哀想……」 「一番上の兄貴は,小学生なのに何度か親父を止めようとしたんだけどな。結局,兄貴も殴られて何度も骨折して,鼓膜が完全に破れ左耳が聞こえなくなった。そして,小学校を卒業すると家族から離れちまった。それ以来,誰も一番上の兄貴には会っていないし,親父とお袋が死んだことも伝えられていない……」 「そうなんだ……一番上のお兄さん,私たちも一度も会ったことないし,お婆ちゃんのお葬式にも来なかったもんね」 「ああ……誰も兄貴がどこでなにをしているのか知らないから」  妹が不機嫌そうに父親を見た。 「男って,すぐそうやって逃げるんだよね……。もし,お母さんとお姉ちゃんがお父さんに殴られてたら私は逃げないで警察に行くのに」  父親が苦笑いをしたが,その表情は苦痛に満ちていた。私は妹を見ながらきっと妹が殴られていても私も逃げないようにしようと,心の中で何度も自分に言い聞かせた。
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