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左手を天井に向けて手をかざすように広げると,ゆっくり空気を撫でるようにひらひらさせた。その仕草はどこか陰鬱で,やり場のない不満がゆらゆらとなびく指先から溢れていた。
「だから,大人になってから……男たちに穢されてから,お兄さんに綺麗だって褒めてくれた大切な手を斬り落として想い出を自分だけのものにしようと思ったんだって……だって,お婆ちゃんにとって,大好きだったお兄さんに褒められた唯一の宝物だから……これ以上穢されたくないから……」
「…………」
指先に絡みついた見えないなにかを解こうとしているのか,ぎこちなく手を振ると,何度も指を擦り合わせた。
「でもね……お婆ちゃんの望むことは人生でなにひとつ叶えられたことがなかったの……ずっと,ずっと。なにひとつとして……」
「…………」
「お爺ちゃん,馬鹿だから指先しか斬らないし。手首から斬れって言ったのにぃぃぃ。あいつは本当に馬鹿で使えないのよぉぉぉ」
「え…………」
「それでねぇ。そのお兄さんね,お婆ちゃんが幼いころに……とってもとっても幼いころに,病気で死んじゃったんだって……」
再び部屋のなかを彷徨うように左手をひらひらさせながら,私に視線を向けた。そのどこまでも真っ暗な瞳には深い悲しみが満ち満ちていて,見ているだけで大切ななにかを失っていくような,心臓を鷲掴みにされるような恐怖が全身を包み込んだ。
やがて孤独のなかで真っ黒な液体にゆっくりと沈められ,底の見えない真っ暗な穴に堕ちていく自分の姿がはっきりと感じられた。
「まぁ,お爺ちゃんも頑張ったっぽいよ。ただ,お爺ちゃん……お婆ちゃんを壊す前に耐えられなくなって自分が壊れちゃったんだって。馬鹿だよね……そんなにしてまで……」
「…………」
「あ,それとね。お婆ちゃん……もう私たちの前には現れないっていうか……もう少ししたら現れることができなくなるって……なにはわかんないけど,見つけたんだって」
「…………」
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