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幸せ真っ只中にいたのは自分だけだったらしく、あっさり境に振られた。ふたりの関係が噂になりかけていたことを知り、自分が嫌われたわけじゃないのならと必死で縋った。奏衣の媚びるような態度がますます境を遠ざけた。
突然の失恋に耐えきれず、イギリス留学と称して奏衣は逃げた。それはかなり切実な選択で、田舎から特に興味もない外国へ死ぬ気で逃避行を遂げた。
ロンドンで彼氏作るぞーと躍起になって、ちょっと親しくなった相手にはゲイオープンにしていたのでわりとモテた。
失恋の反動と知り合いがいない気楽さ、期間限定という三つ条件が揃っても、皐月に言われた通り、心に他の男がいるままじゃ誰ともなんともならなかった。
「ごめん。適当に言ったのに当たりなんだ。そんな顔しないで」
皐月の大きな手が、するっと奏衣の頬を撫でた。その手が触ってもいいのかためらうようにこわごわと動いたから、胸の内側がざわりと波立つ。
自分はどんな顔をしていると言うんだろう。薄情な境のことなんて、とっくに忘れたはずなのに。
「別に。昔の話だし」
留学時は離れてさえ境のことばかり思い出していた。新しい環境の中で、否応なしに自分が鮮やかに塗り替えられて行くのが嫌だった。忘れるだなんて離れておいて、何ひとつ忘れたくなかった。
それなのにその男は、もう奏衣の中に存在しない。
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