1.ことの興り

2/2
1人が本棚に入れています
本棚に追加
/22ページ
 男は三夜を駆けていた。  まだ関東までもが蝦夷と呼ばれている時代である。  道たる道もない山間を遠路はるばる駆けてきたのだ。  男の手には黒塗りに収まる長物が一本。  出立の朝に完成したばかりの業物である。  良く知る刀匠とともに長い試行錯誤を経て、三年近くの歳月を注ぎ込んだ末の傑作だ。  刀匠は刃金が落ち着くや丹念に仕上げ研ぎを行い、銘も掘らずに(なかご)を仕立て、出来上がった一振りを男に託すと崩折(くずお)れるように倒れた。  精魂尽き果て、泥のように眠っているのか、あるいは息を引き取ったか、定かではないが確かめもせずに男は()った。  この男、出自ははっきりしないがめっぽう腕が立つ。都の辻で四方から野武士に襲われ、そのことごとくを斬って捨てたという。翌朝になって通りに人が出てみれば牛車が立ち往生するほど路端に死体が溢れていたと巷を騒がせた。  そんな剣豪であっても、乱世無頼の身、ただ鍛錬と日銭稼ぎに明け暮れていたところ、住まいの戸口に白羽の矢が立った。矢文である。 ――当方、歳月二百有余ノ鬼神ニ御座候。此度、家督長子ニ継ギ候ヘバ、北海ヲ漕ギ出デ諸国渡リ縁者ニ告ゲ再ビ国ニ戻ラバ三歳ニ候。()ラバ後ノ長月ノ朔ニ鬼哭山ノ祭祀御前ニテ手合ワセ願イタク候。返書不要事。 “自分は二百余歳の鬼神である。この度、家督を長子へと譲った旨を親類縁者へ報告するため北方の諸国をめぐる旅に出るがここに戻るまでに三年ほど掛かる。ついては旅を終えた後の九月一日に鬼哭山にある祭殿前で手合わせを願いたい。返信は不要である”ということらしい。  男は半信半疑に顎を撫ぜたが、思案したのち一人得心しニタリと嗤った。
/22ページ

最初のコメントを投稿しよう!