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ーーああ、なんて優しい神様。愛しい彼と同じ時代に私という魂を巡らせてくれたのだから。
「急げ!」
腕を引く彼が荒っぽく叫び、ホームへ続く階段を駆け下りていく。運動部の男子と文化部の女子では体力も運動能力も違うというのに、焦りで思い至らないらしい。無理を強いる彼に文句を言いたがる唇を引き結び、代わりに縺れそうになる足を動かした。
発車間際の電車に滑り込むと、背後で扉が閉まる。なんとか間に合ったようだった。そのことに安堵して息をつくと、前に立つ彼が私の方を振り返った。
「大丈夫か?」
息を乱した私とは違い、いつもと変わらない様子でこちらを覗き込む。その目に反省の色はない。目の前にあるブレザーの胸元を軽く叩くことで抗議すると、笑いを含んだ声がいてぇ、と嘯く。
「悪かったよ」
「遅れそうになったのは浩太が寝坊したからなのに……」
「だから悪かったって。起こしてくれてありがとう」
一見鋭く見えるつり目を細め、柔らかく微笑むと、乱れた私の黒髪を梳くようにして撫でる。そうされると、つい文句を続けようとした口を閉じてしまう。
じとりと睨みつけても彼は笑ったままだ。確信犯。私が甘やかされると弱いことを知っている。
思い通りに動くのは癪だと思うのに、体からは力が抜ける。自分からその手に擦り寄れば、彼は満足そうに笑みを深めた。
「変わらないわね。困ったことがあるとすぐこうやって誤魔化すんだから」
「そうか?」
「そうよ」
首を傾げる彼に切なくなって瞼を伏せる。惚けているわけではなく、本音であることはわかっていた。
彼は知らない。こうして髪を梳いて唇を合わせることを私が好きだということを。
彼は覚えていない。手のひらに擦り寄る私が猫のようで愛らしいと笑んでいたことを。
--ああ、なんて非道い神様。愛しい彼に私という記憶を残してくれなかったのだから。
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