城主

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駿河伊達家の当主ではあるのだが、百五十貫で石高になおすとおよそ四百石程。 家人は八人で今川義元に仕えていたが、桶狭間の戦いで主君・義元公が討たれ、今川家臣団の誰もが我をさきにと一目散に逃げて行くなかで、鳴海城代の岡部丹波守元綱だけは他の武将とは違っていた。 鳴海城に籠城し、義元公の御首を取り返すと駿府館の氏真公に所領加増と感状を与えられた。 義元公の御首を元綱の元に届けた今川家臣の名は、伊達藤三郎政宗と家臣から聞いた氏真は政宗にも後日、褒美として城を一つ与えた。 政宗は駿河国・蒲原城主になってしまったのだ。 氏真は義元の仇討ちを松平元康・今川家臣団・武田家・北条家から度々進言されたが、ことごとく聞き流していた。 (このままでは、いずれ徳川家康と武田信玄が今川領を攻め滅ぼしにくるのは必須だから蒲原城で武田軍を撃退せねばならぬ!駿河・伊達家の武勇を後世に残したい) と、政宗はリベンジを心のなかで誓っていた。 永禄11年(1568)12月6日、武田信玄が今川家と手切れとなり、駿河遠征のため躑躅が崎館を一万二千の軍勢で出陣した。 武田軍最強・山県昌景の赤備え隊を先鋒に12月12日には駿河内房に陣を構えたとの報せを受け、氏真は急ぎ足に重臣の庵原安房守に一万五千の兵を与え、武田軍を迎撃するのに最適な薩った峠に向かわせた。 北松野城主・荻清誉は武田軍に降ることを拒み、手勢を率いて内房口で奮戦し討ち死にしたと伝令が敵味方に伝えられた。
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