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そんな、ある月の明るい夜、兄弟が海岸から家への道を歩いていると、村の中でも行商人と親しく、外の情報に通じている若い男が、町から来たという男と何やら話しているのを見ました。
男たちは、月を背後にして兄弟を見、こっちを指差してひそひそと話していました。
シオは、わけもなく不穏なものを感じました。
その時分、この村では病から奇跡的に回復した人が多いことを聞いて、何か特効薬でもあるのなら教えてくれと、切羽詰って訪ねて来る人が増えていたのです。
彼らの低い声の中から、シオには「人魚の・・・村はあれからすぐ引き払われたように人がいなくなって・・・もう誰も・・・村はなくなっちまった・・・人魚はもうあれしか・・・残っていない」という言葉が聞こえたように思いました。
若い衆がこちらに一歩踏み出すのを見て、なぜかシオは背筋がぞっとしました。
そのとき小屋の戸が開き、父が顔を出して、若い衆に向かって吠えるような
大声で詰問しました。
若い衆はぎょっとして、なだめるように父に寄り、話しかけました。
シオはなんとなく胸がざわざわし、弟の手を握りました。
アオは、あどけない顔で見上げるばかりです。
低めた声の中から、「町の連中も困っているしどうしたって高値を出すから、村も豊かになる・・・あれは元から村のものじゃないのだし・・・」といった言葉が聞こえたようでした。
父の顔が一度引っ込み、次に家の中から大きな樽が男の顔めがけて投げつけられました。
若い衆が樽をどうにかよけて、尻もちをつき、かっと気色ばんで起き上がろうとしたときです。
「二つ足二つ足、満月の夜の約束を忘れたか」
どこから聞こえてくるのかもわからない、遠いとも近いともわからない声が、
その場にいる人間たちに、確かにそう告げたのです。
声というより、法螺貝の響きのような、潮騒のとどろきのような、
なんともいえない不思議な音でした。
それはなんとも感情のない調子で、それなのに冷たい水をかけられたように体の芯が一気に冷えるのを、シオは感じました。
その場にいた全員はしばらく石のように固まり、耳を済ましていました。
少し立って波の音が聞こえ、体が動くと、
シオ一家も、若い衆も、それ以上一言も言わず、そろそろとそれぞれの家に戻りました。
その声を聞いたものたちは、その夜、かぶった夜着の下で震えました。
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