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荻野目は生まれつき、音はより大きく聞こえるし、匂いや味はより強く感じるし、光や色はより眩しく見えて、温度やモノに触れたときはより直接的に感じた。いわゆる感覚過敏というヤツで、荻野目にとってのこの世界というのは、何もかもスケールが大きい巨人たちの国のように思えるのだ。この巨人の国から逃げ出す手段として、荻野目は、外出するときは必ずヘッドフォンで音を遮り、ガムを噛んで匂いを誤魔化し、身体をぎゅっと縮めて強張らせ、誰にも触れられないようにしている。こんな世界で平然と暮らせる“人間”のほうが、荻野目にとっては恐ろしかった。そしてそのことを伝えると―荻野目は強く批判されてきた。
「世界がそんなに恐ろしい筈がない」「そんなふうに感じるなんて頭がおかしい」、実の両親にさえ、幼少の頃から「おかしなことを言って気を引こうとしている」「私達の子供に知的障害があるなんて有り得ない」と罵られた。(ちなみにここで言う知的障害、それでもってそれが悪、というのは、荻野目の両親による独善的な思い込みだ。)
正直に、自分の人生を振り返ったとき、荻野目は、心底辛くなった。過呼吸を起こし、手足が痺れ、毎朝悪夢に魘されて、ベッドから起き上がり立って歩くのすら困難になった。自分の人生は、耐え忍ぶだけの価値がなかった。否、死こそが救済ですらあった。単純な計算式を描くと、至極明快だった。「また寝不足と喘息か?」と鬱陶しそうに声をかけてくる父親の横目が答えだ。荻野目は、今まで、喘息になったことなどない。
荻野目には、毎日飯を食い眠る家と、心を許せる姉と、愛する友人と、焦がれる恋人がいた。趣味も夢も才能もあり五体も満足で金に困らず、自分はすごく恵まれた―化け物だと自覚している。これだけで、世界規模で見れば相当な贅沢だ。周囲を見たって、これだけ揃っている人間はあまり居ないかもしれなかった。
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