0人が本棚に入れています
本棚に追加
もちろん、私がいけないのだ。
それは分かっている。だが私の事情も理解して欲しい。もう何年も妻とはセックスレスで、ここしばらくは残業続きでろくろく寝ておらず、今日は昼飯を食い損ねたうえ仕事でミスして理不尽に怒られた。
そして帰宅の電車。
突然、後ろでどこかの子どもが泣き出したのだ。
泣き声のした方に目をやると、三つか四つの男の子であった。
隣では母親らしき女がスマホをいじっている。私は堪らず声をあげた。
「おい、おまえ、親だろ。なんとかしろよ!」
女は生気のない目でこちらをただ見た。電車内が険悪な空気に変わった。いや、子どもが泣き出した時点で空気は充分に険悪であったのだと思う。
私が、更に何かを言おうとした時、軽い咳払いをして近くの優先席から初老の男が立ち上がった。そして周囲を軽く見回しながらゆっくりと口を開いた。
「あの-、わたくし、この先のクリニックで医者をしております。それで申すわけではありませんが、赤ん坊が泣くときには色々な原因が……、そのー、考えられます」
電車内の視線はいったんその男に集まった。そのまま、聴衆に向かって男はしゃべり続ける。
「愛情不足、眠気、空腹、環境……この子の場合は、近くにいる大人から強いストレスと怒りを感じたからでしょう。赤ん坊には周囲の大人の気持ちを察する能力がある」
もったいぶった嫌味なしゃべり方だ。
「つまり、何を言いたいかというと。この子が泣いている原因はあなただ!」
そう言って初老の男は鋭く私を指さした。車内中の視線が指の先、つまり私に向けられた。
最初のコメントを投稿しよう!