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彼は立ち上がって、私に手を差し伸べた。
「覚悟があるなら、この手を取って。そちらには二度と帰れない。それでも良いなら、だけど」
迷いはなかった。
私は立ち上がると、彼の手を取った。彼は少しだけ残念そうな顔をしたけど、そのまま私の手を引いて、湖に足を踏み入れた。
その時、後ろでどさり、と音がした。
振り返るとそこには、私の抜け殻が倒れていた。
「ようこそ、こちら側へ。歓迎するよ」
彼の表情から暗さが消え、ふわりと笑みを浮かべて私の手を引き、湖の中へと潜っていく。
息苦しさはなかった。
透明な湖はそのまま夜を溶かしたようであり、その深い青の中を二人で進んでいく。
やがて、ちらちらと瞬く星が見え始め、それはあっという間に私の周りを取り囲んだ。
私は仰向けで揺蕩う星の中に浮かび、そのままゆっくりと沈んでいった。
周りの青が濃くなるほど、星は美しく光って見えた。
「……幸せそうで何よりだよ」
彼はいつもと変わらぬ優しい声でそう言った。
そうか。私は幸せに浸りたかったのだ。そして私の幸せはここにあった。
この美しい場所で彼と揺蕩い、もう何の心配もすることはない。全て、あちら側に置いてきてしまったのだから。
これが死ぬということなのか、と私は思った。思っていたよりもずっと優しくて、心地良い。
「今まで、お疲れ様。ここには好きなだけ居て良いからね」
彼は温かい声でそう言った。
死んだその先に何があるのか、私は少し考えて、すぐにそれを放棄した。
それよりも今は、ここで揺蕩う幸せに浸っていたかった。
私が今日死んだ理由は、何もかも全てを向こうに置き去りにして、この幸せに浸りたかったからだ。
私は満たされた気持ちのまま、星が泳ぐ水の中を、ゆっくりと沈んでいった。
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