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体調が万全ではなかった。
それも理由の一つにはなると思う。冬だというのに汗ばむほどに暑くて頭がくらくらしていた。そうでなければあんな身の丈に合わないことを私がやるはずがない。あとから思い返してもそう思うほどに、この物語の始まりは革命的で刺激的だった。そしてもぎたてのレモンのようであり、搾りたてのプラムジュースのようでもあった。酸っぱいのか甘いのか、それだけは今でも表現に迷ってしまう。
「酷くならないうちに帰りなさい。頑張りすぎなのよ、きっと。」
私が働くレストランの同僚のナタリアは、そう言って人のいい顔で私の背中をぐいぐい押した。定時は守っているし働きすぎている訳でもなかったのだが、まるで私がワーカホリックだとでもいうような口ぶりだった。ナタリアは普段から、私が調理場やホールで動き回っているのがどうやら気に入らないようなのだ。幾分も年上で今こそでっぷりしたただのおばさんだが、若い頃ミス・アマルフィと呼ばれたこともあったらしい。若い女の店員が雇われるたびにねちっこくなっていたのだが、今では私より若い女店員はいないので、ナタリアの八つ当たりは私の方だけを向いている。ミス・アマルフィも年齢には勝てないと気づいて、早く年相応の落ち着きを持ってくれることを願う。
「あなたさいきん、恋してるの?」
ナタリアが真面目な顔でそんなことを問うてくる。彼女がつねに、若い頃に一番楽しかったことは恋愛だと豪語していることは知っていた。今回も私が頷かないうちに、幾度となく口にしてきたであろう説教をうっとりとした目で語り始める。
「単調な生活に潤いをもたらしてくれるのはそう、恋なの。心と体がずっと最大限に仕事をしてたあのころが懐かしい。今だって毎日してるわ」
「毎日?」
「たとえばとびきりダンディなお客さんが来るとするでしょ。最初は遠くからそっと見つめて、注文を取るときにすぐそばから見てしっかり脳に焼き付けるの。目と目を合わせて注文確認をしたあとは話しかけたり、褒めたりする。笑顔を返してくれたら最高ね。今度やってみなさい」
「旦那様に嫉妬されちゃいますよ、いいんですか?」
「あの人のことは愛してるから」
ナタリアは笑って踵を返した。
「今日は大丈夫よ。早く帰って休んでね。」
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