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かつては門弟二百を超える大道場の道場主であった。
それが一年ほど前に、流れの道場破りに負け、看板を奪われた。
門弟は次々と離れていき、道場を畳まざるを得なかった。
何より孫兵衛を打ちのめしたのは、自分が道場破りに再び挑もうという気概を失っていたことだった。
老い、である。
そもそも、老いなければ、道場破りに敗北することもなかったのだ。
強いとは言え、昔の自分ならば間違いなく勝てた。
地位も名声も、若さも。
全てを失った孫兵衛は、死に場所を求め、冬山へと来ていたのだった。
「私は京の町で薬師になるため、勉強していたのです」
青年の、そんな声が、孫兵衛を追憶から覚めさせた。
「村には医術の心得がある者がいなかったので。村の皆が金を出し合って、私の学費を賄ってくれたのですよ」
そう語る、青年の声は若く、弾んでいる。
孫兵衛の心に、ちりちりと熾火のような何かが燻り始めていた。
「もうすぐです。この山を越えれば……」
と、孫兵衛は異変に気づいた。
空だ。
もうとっくに日は沈んでいるというのに、行く先の空がかすかに明るい。
青年も、遅れて、その事に気づいたようだ。
慌てた様子で、山道を駆ける。
孫兵衛も、後に続いた。
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